Category Archives: public morality and media

The Slow Japanese Response to COVID-19

Through out the first three months of 2020, there was fear that the 2020 Tokyo Olympics might have problems. Scandals after scandals followed after Tokyo was named to be the host city. The stadium costing too much, the stadium looking … Continue reading

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誰のための表現の自由か

[この文章は2018年11月にツィッターで連続投稿したを内容を補足・編集・改訂したものです] 表現への許容の度合いは様々であり、表現者を取り巻く基準に「世界標準」というものはありません。また、同じ国の中の中でも地域やジャンルによっては様々な基準があります。市民の自治による監督権限が分散している国では自治体によって基準が違いますし、映画やTV、ゲームなどを巡って異なる基準を制定している国家は珍しくありません。また法令で規定されている範囲は飽くまでも法令の設けた基準であり、できるだけ明確に・できるだけ公平に・できるだけ表現の自由と個人の尊厳が守られるように設計するのが一つの理想でしょう。 表現の自由を守る理由は色々あります。政府の腐敗や暴走を止めるため、文化・芸術・科学の発展を阻害しないため、報復を恐れない議論を可能にし、表現の平等性を保全しつつ発言者の人権を損なわないため。私個人の意見ですが、守られるべき自由は人から疎まれるような「人気のない」「嫌われた」「小さい声」を重要視するのであって、法の保護なくとも持ち上げられるような人気のある、格式高いを優先する必要はないと思います。表現の自由は万人にとって常に居心地のよい景観作りをするためではないのです。 個人が安心に感じられる環境作りは重要ですが、特定個人の主観的安心感を基準にして他人の権利を制限することは危険極まりないと思います。思い出して欲しいのですが、これまでに「社会的、道徳的、公序良俗の違反である」を理由に色々な個人の尊厳が蔑ろにされてきました。このような権威の乱用は世界各国で行われており、今なおも幾度となく進行している例はあまりにも数が多いです。 私は社会や個人を尊重する公共性の構築と表現の自由の共存は可能だと考えています。歴史的な町並みに建てられる物件は外装保守的でも、内装はいくらでもはっちゃけても良いのではないでしょうか。これを情報共有の場において可能にしてくれるのがゾーニングであり、メディア・リテラシーだと思います。 気に入らない内容に直面したとき、私たちは表紙を閉じる・チャンネルを変える・視線を逸らすことができることを忘れてはいけません。目に入るもの全てを気にするのはやや息苦しいと思います。「気にしない」というスキルは情報過多社会に生きる上では必要不可欠ではないでしょうか。 よく「子供がみたらどうなんだ」や「フィクションでも心が傷つく人がいる」という主張を論拠にした発言があります。一見、これは弱者や被害者への配慮を重要視すべき、という誠実で慈しみに溢れる素晴らしい意見に聞こえますが、冷静に分析すると論理的に破綻している側面があり、そのまま看過してしまえばパンドラの箱をあけるのに相当するのではないかと不安に感じます。 残念ながら私たちが生きる現実社会は見守られていない子供にとって危険な側面があります。人が人としての自由意志に導かれて行動する際、誤って怪我をしたり亡くなることがあります。これらの危険要素を徹底して取り払うには個人の自由を大きく制限し、市民を広く細かく管理するのを良しとする社会とそれを可能にする技術が必要でしょう。 私たちの命の源である太陽も数秒間直視するだけで私たちの視力を奪います。なくてはならない水もタライに張ることで溺死を誘発できるのです。自然に生える樹木も登れば高さによっては落下による怪我か死に至る危険極まりない構造物といえます。 しかしだれも太陽を無くせ、水を制限しろ、樹木を全て伐採せよとは言いません。言うべきでもないでしょう。 危険な世界の中をうまく立ち回る知恵と知識、分別と成熟性を備わるまで私たちは子供を適切に見守り、成熟した人間に育てるのが最善だと思います。 成熟した人々同士のやり取りを前提とした社会生活を、分別つかぬ子供の時折無軌道な行動力を意識して組み変えるべきはないと思います。三輪車に乗る子供と大型トラックが同じ道を走るような交通法規の構築やインフラの整備は無茶なのです。 「フィクションでも心が傷つく人がいる」ついては大変申し訳ないのですが、配慮には限界あります。私はアレルギー持ちですが、「私のアレルギーを論拠に他人の行動や食事を常に制限すべき」でしょうか?私は特定の食べ物の食べると命の危険がありますが、だからと言ってそれを他人に押し付けません。自ら摂取するモノについて自分で気をつけるしかありません。 私にとってアレルゲンであるものも、他人にとってはおいしい食材であり、豊かな食生活の一部なのです。 人によって何が害をなすのか予測し難い部分もあります。それらが市場を媒介して流通するのに不満を感じることがあるかもしれませんが、市場とは万人それぞれの需要・嗜好を満足させるために存在するものであり特定個人のための流通ではないと思います。スーパーにアレルゲンがあってもスーパーを潰せとは誰も言いません。 創作物が口に合わないのであればそれは避けるのがよいでしょう。しかしその創作物が存在すること事態が許せないから無くせというのは危険な論理です。あなたが大事にしているモノを違う人が全否定するのを良しとしてしまいます。色々な作品や並列して存在できることは素晴らしいと私は感じます。成人向けゾーニングや多種多様なジャンルが介在する日本こそ人々の多様性に準じた多種多様な趣味趣向を満足させられる豊かな市場といえるのではないでしょうか。 また創作物は概念上の存在であり、読解力がないとその情報の伝達は設立しません。どのような人畜無害な創作物に対しても嫌悪感を起こすことは可能です。手の影を見て蜘蛛が見える人もいることを想定してモノづくりをするべきでしょうか? 対面で物語を紡ぐならいざ知らず、全能の神でもなければ手に取るかもしれない読み手全員を意識して物語作りをする出来ないと思います。何が誰の琴線に触れるのか、何が誰かの逆鱗に触るのか、すべからく予知することは無理です。なので結局は「摂取するモノを気をつけるしかない」としか言いようありません。 もしろん、作品に対して不満を露にすることは制限すべきではありません。しかし自らが不快感を感じたのだから他人もその不快感を共有するのは当然であるというのは行過ぎた配慮の強要に繋がりかねません。それは特定の作品を持ち上げる人にも当て嵌まることです。あなたが良いと感じているのを他人に押し付けるのは行き過ぎですね。 私たち一人一人の基準と私たちを取り巻く基準は世界共通でもなく、歴史的にも普遍ではありません。人は変わります、社会は変わります。表現規制の大義名分は崇高であることもあれば、恐ろしく下らないこともあります。規制や基準が裸の王様であるとあなたが指摘すると叩く人が出てくるかもしれません。そこまでは予測可能の範疇でしょう。 ですが規制や基準に対して異議を唱えれば、その主張を応援する人も確実にいます。表現者の場合、それは読者と視聴者でしょう。しかし中には規制を求める相手が憎いという動機が先走って、過激な発言や行動を繰り出す人も出てくることがあります。相手が過激だから自分も!は不毛ではないでしょうか。 あなたはたくさんの方々に支えられて生きているのです。でもあなたの理念や思考自体はあなただけのものです。他人への配慮や意識することは社会の中で生きる上で大事ですが、自己の確立を放棄しないで下さい。規制を巡る論拠は絶対的正義とか世界共通の倫理とかが持ち出されやすいですが、あなたが考え、感じるのと同じように他人も思考し、色々な受け留めをしているのです。 表現規制や表現の基準は自己決定権や個人の権利、尊厳に直結しますが、それがあなたの全てではありません。だれでも安心して安全な自由な表現を追求できる市場は絶え間ない助け合いと連携の上で成立っています。それを意識し、出来る範囲でその環境整備に貢献しましょう。でもその間に自分を見失ったら意味がありませんから気をつけてくださいね。

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萌え絵の違法性

日本においてアニメ的な配色と大きな瞳や可愛らしいとされる記号の組み合わせで構成された、いわゆる「萌え絵」が社会的に広まったのは21世紀に入ってからでしょうか。それ以前からもマンガやアニメは広く市民権を得ていましたが、アニメ・マンガ文化のサブカルチャーともいえるかもしれない美少女・BL系分派がサザエさんやドラえもんなどの作品群と肩を並べる世界に近づいたといえるのかもしれません。 さて日本国内から「日本の萌え絵は性的な要素が強く、直接エロ描写がなくても海外では児童ポルノとして捉えれるからよろしくない」や「萌え絵があまりにも広く社会的に浸透している。海外から嫌悪感どころか場合によっては違法なコンテンツなのだから身の丈をわきまえてもっと大人しくあるべきだ」という主張が2018年にちょくちょく見かけられるようになった気がします。 キズナアイをはじめとするVtuber(バーチャルYouTuber)が社会現象として話題になりはじめてからこの話題は加速しているように思えて仕方ありません。 しかしながら日本のアニメ・マンガにおいて大きな地位を占める「萌え系」が海外では社会的に不謹慎とされる主張や表現の自由の保護に入らないという主張には同意できません。制限速度を超える速度をだせる車の話を持ち出して「車は違法」というような主張に思えます。そもそも海外での規制基準は非常に多種多様なので一括りで論じることは事実誤認や歪曲へとつながりやすいと思います。 まず欧米の基準を持ち出す時には「欧米」の概念を考える必要があります。 アメリカは表現の自由を最大限保証する国として有名で、アメリカでは許容されてもカナダやドイツでは違法とされるような表現物が多々あります。 欧米諸国はは民主主義・市民生活の保全・個人の権利の保護という理念で共通点が多いと言えるでしょう。しかし、具体的にどのようにその理念を守るかについてはさまざまな取り組みを模索し続けています。国によっては驚くほど寛容ですぐ隣の国では極めてきびしかったりします。 つまり「欧米の基準」「先進国の基準」を持ち出すことは曖昧極まりないと思います。 このような欧米各国の異なる取り組み方を意識するのに加え、長い歴史的観点と多様な視点を垣間見れる鳥瞰図が大事である私は考えています。さらにはどの国にも複数の異なる基準が並列し、共存していることを忘れていけません。 さて、ここでアメリカの基準に焦点に当てたいと思います。世界で非常に影響力のある米国の表現規制や視点ですが、次の四つに大別できると思います: (1)連邦法や州法の条文基準と判例 (2)FBやTwitter等ユーザーコンテンツ共有プラットフォーム利用利用規定の基準 (3)特定のコミュニティで受け入れられた基準 (4)個人・団体が提唱する基準 ―これら全部別々です ■(1)連邦法や州法の条文基準と判例 まず(1)ですが、米国は日本と猥褻の取り扱いが大きく異なります。日本では赤裸々な性描写において陰茎と女性器に対して程度の修正を加えれば、題材やその描写の傾向など、作品の内容についてはほぼ一斉に不問とされ、当局から追求されません。これは日本国刑法175条にそのように定義されてからではなくて、猥褻図画に該当嫌疑としての当局の運用基準です。不平不満が多い基準とは思いますが、ある程度までわかりやすいのは否めません。 ときどき書き換えられるのが本当に困りますが。 しかしながら、当局が問題視して警告・逮捕・立件したとしても裁判所で結審されなければ猥褻とは認定されません。日本は米国に比べると警察と検察当局による立件基準はかなり保守的で、法廷で当局の立件が無罪と結審となるケースは少ないです。(ただ、ここ近年増えている印象はあります。) 一方、米国では猥褻は陪審員の結審によって認定されます。日本のように判事ではなく地方に根ざした陪審員が自らの価値観に導かれて違法性を考えます。市民の基準が地方地方によって大きくことなるのが特徴的です。このため、AVの撮影がロスに集中しているなどの現象が発生します。 確かに米国は想像上の未成年の性描写の違法化を1990年代から模索しています。 しかし2002年に米国最高裁はヴァーチャル児童ポルノを違法化を試みた1996年のChild Pornography Prevention Act(児童ポルノ防止法)に対して違憲と言う判断を下しました。しかも9人いる判事が6対3という割合で違憲と認定した事は当時随分話題になりました。この時に最高裁は色々な観点から実在する未成年者を含まない児童ポルノを全面禁止するのは過剰であると指摘しています。 ・同法律は表現の自由が保障されている猥褻ではない表現も違法化している。 ・児童虐待を伴う実在児童ポルノは児童の保護と福祉を踏まえ、表現の自由が守るべき範囲には含まれない。だが、児童虐待を伴わない偶像児童ポルノに同じような「表現の自由を上回る公共の福祉性を優先する必要」は当てはまらない。 ・偶像児童ポルノと実在児童を巻き込む性的虐待犯罪行為の間に明確で直接的因果関係が認められない。 ・実在児童ポルノが違法である最大の理由はその内容ではなく、その製造過程にある。 ・犯罪に使われるかもしれないという可能性だけで、それ自体が無害であるモノ・合法的に制作されたモノを違法化するのは過剰である。 ・違法行為を促がしかねないという理由だけで表現を規制することは過剰である。市民の私的思考を望ましい方向に向けるために法規制するのは不当である。 ・偶像児童ポルノが実在児童ポルノの制作を促がすという論拠は脆弱であり、実際には取扱に非常に厳しい処罰規定が伴う実在児童ポルノを偶像児童ポルノが市場から駆逐する可能性がある。 この2002年の最高裁の判決に不満を持つ人は数多く居ました。半年もしないうちに新たな法律が連邦議会で可決されて、2003年にブッシュ大統領の署名をもってProsecutorial Remedies and Other Tools to end the … Continue reading

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Patreonアダルトコンテンツメーカーの怒り

Patreonとは米国のクリエイター支援プラットフォームで、月額や投稿毎に資金援助するのを取り持つクラウドファンディングサービスです。日本よりは海外で人気のサービスですが、海外在住の日本のアニメ・マンガ絵柄のクリエーターで活用している人は少なくありません。 元々は音楽家活動する人を支援するシステムとして始まったそうですが、その後は映画作家やイラストレーター、コスプレなど創作行為全体を支援する一大クリエータープラットフォームとなっています。Patreonがないと生活出来ない!という人も結構増えました。 Patreonではエロについては「ポルノはダメだけど、アダルトはOK」という曖昧な基準で知られていました。これは取引相手の銀行やカード業者などに対していい子であるように振る舞いつつ、クリエーターに対してはかなりの自由度を約束する「良いとこ取り」といえるかもしれません。 何をもってポルノとするかは見る人の主観によって非常に大きく影響されるので米国でも日本でも明確な基準は難しいです。一応Patreonとしては「R指定程度ならいいけど、AVは勘弁ね。でもアクセス制限すれば(18歳以上はみちゃダメというタグ付け)をすれば大目に見るよ」という姿勢でした。 Patreonはそもそも米国のソフトコア・ポルノの基準を意識しているといえるでしょう。「おヌードはOKだけど、接合部分の接写はダメ」「セックス描写全般はOKだけど、ハードなSM行為は勘弁してね」ーー表向きはこんな具合であったと私は理解しています。具体的には次のような描写が禁止となっています: 一律禁止:実写・創作物問わず未成年者を性的に取り扱う表現 禁止:強姦や性暴力を称賛するような描写 この他にもPatreon側が問題あると判断したコンテンツを規制する権限を明記していました。 かなり自由度がありますが、これでも日本の商業誌・同人誌に掲載され、米国の法律でも表現の自由の範疇に含まれるとされる作品(いわゆる合法的な表現)も禁止する基準です。日本のクリエーターからするとあまり自由とは言えない。しかし元々日本の商業誌や同人誌での自由を知らない人たちからすると「十分な自由」と見えたこともあって、海外在住の日本アニメ・マンガ絵柄に強く影響を受けた方々のあいだではPatreonは非常に人気の高いプラットフォームでした。 しかもPatreon側は性産業に携わる方々に対してクレジットカード業者が渋るのを是正したり、エロについても(米国的には)寛容な姿勢を打ち出してクリエーターらにとっても魅力があることを打ち出していました。外連味が強すぎる表現、政治的に不穏当な主張、危なっかしい題材を含まないコンテンツ、すなわち都会派のインテリにとっては許容できないコンテンツ以外の支援を強く主張したかったのだと私は解釈しています。ですから同性愛や女性自身に寄る性的表現には大らかであったと思っています。 さてこんな綱渡りをしていたPatreonのエロ・コンテツへの許容ですが、2017年10月17日に改訂されて大騒ぎとなりました。改訂において禁止事項がより具体的になったのです。一応以下に全文を掲載しますが、要約するとーー 実写・創作物問わず次のような性暴力を称賛するような描写の禁止: 未成年を性的に取り扱う表現を含む未成年の搾取描写 強姦などの性暴力 獣姦 近親相姦、死姦、同意に基づく性交かどうか判断しにくいフェチ行為などのきわどい表現も禁止。 しかしながら近親相姦や強姦などは実際には発生する事象なので被害者が困難を乗り越えたのを奨励するような体験談までは排除しない、としています。 そしてここが大事なところですが、資金支援してくれる人たちへの報奨として次のようなものを提供するのを禁止: 自慰行為、性行為を撮影 ウェブサイトを運営 私的な映像コンテンツのストリーミング放送 などなど We have zero tolerance when it comes to the glorification of sexual violence which includes bestiality, rape, and … Continue reading

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The Dangers of Fictional Human Rights

I have written in the past about some of the seductive qualities of suppressing unpleasant speech in my entry titled, The Seduction of the Thought Police. Below are some points that I made in that entry: “…when faced with realities … Continue reading

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Some Common Western Misconceptions

When answering inquires from the overseas press regarding artistic freedom in manga and anime, I try to add the following note. I am tired of being type cast as the tone-deaf guy that wants to protect anime and manga at … Continue reading

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表現の暴政

日本の表現物は特定の傾向が強く、これが社会全体をゆがませていると言う持論を持つ方々が時折注目を浴びます。このような主張をされる方々は日本をより良い国になって欲しいという善意に後押しされて規制の必要性を主張される傾向が強いと分析しているのですが、わたしはこのような意見に対して一貫として真っ向から反論させて頂いています。 海外報道や活動家の間で日本の男性向け創作物は女性からの搾取を制度化しているという意見が時々発表さているのを皆さんもご存知でしょう。2015~2016年の国連特別報告者マオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏による発言が有名になりましたが、わたし自身BBC3のドキュメンタリー・ジャーナリストのステーシー・ドゥーリー氏から同じような主張に対して対応しました。 日本では女性も男性も多種多様な表現を楽しむことができるので「マンガ・アニメは既得権益を制度化させ特定の主流派の主義主張を社会に押し付けている」という骨子の主張に対して違和感を感じる人は多く、海外のからのこのような主張に反論する人は数多くいます。しかし国内からも日本のマンガ・アニメは圧迫的な要素があるという主張が少なくありません。 これまでマンガ・アニメは特定の女性像を掲げているので偏見を蔓延させる、もしくは下品な作品が多いく日本の品性を汚している、などと言った主張が表現規制するために繰り返し活用されてきました。また、マンガ・アニメは巨大なビジネスであり、色々な企業によって特定の表現を広めることで暴政が設立しているという主張もあります。 確かに日本のマンガ・アニメは巨大な市場ですが、その市場が一つの共通思念で動いているというのは大手企業と中小企業に零細企業、大ヒット作家と中堅作家とアマチュア作家、世界最大の購買数を誇るマンガ雑誌と同人形態で販売される個人誌、これら総てを一緒くたにするような暴論と言わざるを得ないと思います。日本のマンガ・アニメの内容ではなく発表媒体や業務形態の多様性を知らないとこのような発言をしやすいのかもしれません。 日本のコンテンツに限った話ではありませんが、「許容」と「圧迫」の話を少々させてください。日本のアニメ・マンガは現在、世界においてかつて無いほどの羨望の対象になっているいます。戦後長年アメリカ映画や音楽は世界中にすさまじい存在感を発揮しました。現在もその影響力に陰りが発生しているように思えませんが、日本のマンガとマンガもまた世界中に浸透してます。さて日本のマンガ・アニメが世界中で親しまれている最大の理由は「自由」「豊富」「多様」だからだと私は考えます。だれでも感情移入できる対象物が沢山揃っており、特定の作風を強要せず、複数の市場が共存しているのです。 海外では1000人以上が参加する日本アニメ・マンガなどのコンテンツを中心としたファン・イベントが1000以上あり、年々増えています。また、アメコミを主軸としたコミック・コンベンションでも日本の絵柄に影響された方々非常に多く、20代の作家さんではその洗礼を受けていない方が少ないくらいです。(2010年代の北米のコミック・コンベンションに参加して得た印象です。) しかし羨望の対象になっている最大の理由は「手軽に描き始められる」、「こうあるべきだという押し付けが薄い」「多種多様な作品群がある」「特定の読者層に偏っていない」だからだと私は思います。だれでも感情移入できる対象物が沢山揃っており、特定の作風を強要せず、複数の市場が共存しています。 どのような場所でも主流派が少数派を圧迫する状況は発生しえます。圧迫はその表現自体が法的に規制されている、一転集中傾向の市場が異なる方向性の表現を許容していない、特定の商品を選ぶと異なる選択肢が活用できないなどの場合は発生しやすいでしょう。 しかしに日本のマンガ・アニメ・ゲームコンテンツで言えば法的規制は諸外国に比べてかなり自由度が高く、複数の読者層(老若男女)を対象とした複数の市場が共存共栄しており、なによりも複数の作品を自由気ままに購入できるくらい選択肢が多く、まさしくより取り見取りのできるすごい場所です。 女性も男性も高齢者も未成年も何も憚ることなく多種多様な表現を満喫できる日本の作品群が「圧迫」「差別的」「非許容」だというのならばそれはアニメ・マンガ・ゲームの問題ではなくて社会全体がそのような傾向があることを示していると思います。 そしてそのような主流派に対してアンチテーゼや反論をもっとも展開しやすいのが日本のアニメ・マンガ・ゲームです。原爆問題、同性愛、部落差別、雇用体制の脆弱性、いじめ、金融業の悪癖などについて日本のマンガは率先して取り組むことが出来ました。 社会問題に日本のマンガは60~70年代頃から取り組み始めました。アメリカのコミックでも黒人問題や民族問題について問題定義する作品がありましたが、ジャンルの傾向がヒーロー物へと集中し、基本的に男子向けの色合いが非常に強い、多様性が乏しい画一的なメディアでした。 アングラやミニコミで独自の表現を模索することがあっても、日本のように商業出版において多種多様な読者を相手に様々な社会的な問題をなぜアメリカのコミックは長らく追求できなかったのでしょうか?映画や音楽ではあれだけ活発だったにも関わらず。 それはアメリカでは「マンガ害悪論」「マンガは児童向け」「表現の自由は当てはまらない」「相応しい価値観しか提示すべきではない」に基づく統治・管理・自主規制の時代が40年代から60年代まで、20年近く続いていたからだと私は考えます。 日本が世界において享受している影響力は「ロリコンマンガを弾圧してない」「下劣なエロパロが存在できる」「アニメ・マンガに囲まれた生活が出来る」「おとなになってもマンガ・アニメ・ゲームをやめない」が成立しているだと思っています。こう書くと反感を買いますが、自信を持って言えるので敢えてこのように主張しています。 繰り返しになりますが、「ロリコンマンガ弾圧してない」とは「勧善懲悪以外の作品が許容されている」ことを意味します。「エロパロが存在できる」とは「二次創作が盛んであり、誰でも創作者となれる同人文化が花開いている」ことの裏返しです。そして「アニメ・マンガに囲まれた生活」こそ「どこででも作品を購入・購買出来る強み」を代弁しており、「おとなになってもマンガ・アニメ・ゲームをやめない」は「大人の鑑賞に堪えうる多種多様な作品が複数の市場で購入できる活発な文化がある」ことに他ならないのです。 日本のアニメ・マンガ文化の欠点とされている部分が実際には非常に重要な側面を担っていることが少しでも汲み取って貰えれば幸いです。日本で「マンガ・アニメ・ゲームは文学や絵画よりも危険」「不謹慎な表現は規制されるべき」という論理で進行すればたちまち多様性も魅力も減退するでしょう。 「こんな下劣な表現さえなくなれば良い」と言うのは楽です。しかしちょっとした規制や市場の変化で日本のインフラが大きく揺らぎ、存在感がやがて風化するのを意識して頂きたいのです。一度、規制が進めば日本のマンガ・アニメ・ゲームの更なる進化・発展は海外頼みになるかもしれません。 もう既に日本のアニメ・マンガ・ゲームの文化は海外で広く浸透し、新しいクリエーターの表現手段となっています。日本のクリエーターが海外のクリエーターと競作、コラボ、刺激し合う時代が終焉しないことを心から祈っています。

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