表現の暴政

日本の表現物は特定の傾向が強く、これが社会全体をゆがませていると言う持論を持つ方々が時折出没します。このような主張をされる方々は日本をより良い国になって欲しいという善意に後押しされて規制の必要性を主張される方々が多いですが、わたしはこのような意見に対して一貫として真っ向から反論させて頂いています。

海外報道や活動家の間で日本の男性向け創作物は女性からの搾取を制度化しているという意見が時々発表さているのを皆さんもご存知でしょう。2015~2016年の国連特別報告者マオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏による発言が有名になりましたが、わたし自身BBC3のドキュメンタリー・ジャーナリストのステーシー・ドゥーリー氏から同じような主張に対して対応しました。

日本では女性も男性も多種多様な表現を楽しむことができるので「マンガ・アニメは既得権益を制度化させ特定の主流派の主義主張を社会に押し付けている」という骨子の主張に対して違和感を感じる人は多く、海外のからのこのような主張に反論する人は数多くいます。しかし国内からも日本のマンガ・アニメは圧迫的な要素があるという主張が少なくありません。

これまでマンガ・アニメは特定の女性像を掲げているので偏見を蔓延させる、もしくは下品な作品が多いく日本の品性を汚している、などと言った主張が表現規制するために繰り返し活用されてきました。また、マンガ・アニメは巨大なビジネスであり、色々な企業によって特定の表現を広めることで暴政が設立しているという主張もあります。

確かに日本のマンガ・アニメは巨大な市場ですが、その市場が一つの共通思念で動いているというのは大手企業と中小企業に零細企業、大ヒット作家と中堅作家とアマチュア作家、世界最大の購買数を誇るマンガ雑誌と同人形態で販売される個人誌、これら総てを一緒くたにするような暴論と言わざるを得ないと思います。日本のマンガ・アニメの内容ではなく発表媒体や業務形態の多様性を知らないとこのような発言をしやすいのかもしれません。

日本のコンテンツに限った話ではありませんが、「許容」と「圧迫」の話を少々させてください。日本のアニメ・マンガは現在、世界においてかつて無いほどの羨望の対象になっているいます。戦後長年アメリカ映画や音楽は世界中にすさまじい存在感を発揮しました。現在もその影響力に陰りが発生しているように思えませんが、日本のマンガとマンガもまた世界中に浸透してます。さて日本のマンガ・アニメが世界中で親しまれている最大の理由は「自由」「豊富」「多様」だからだと私は考えます。だれでも感情移入できる対象物が沢山揃っており、特定の作風を強要せず、複数の市場が共存しているのです。

海外では1000人以上が参加する日本アニメ・マンガなどのコンテンツを中心としたファン・イベントが1000以上あり、年々増えています。また、アメコミを主軸としたコミック・コンベンションでも日本の絵柄に影響された方々非常に多く、20代の作家さんではその洗礼を受けていない方が少ないくらいです。(2010年代の北米のコミック・コンベンションに参加して得た印象です。)

しかし羨望の対象になっている最大の理由は「手軽に描き始められる」、「こうあるべきだという押し付けが薄い」「多種多様な作品群がある」「特定の読者層に偏っていない」だからだと私は思います。だれでも感情移入できる対象物が沢山揃っており、特定の作風を強要せず、複数の市場が共存しています。

どのような場所でも主流派が少数派を圧迫する状況は発生しえます。圧迫はその表現自体が法的に規制されている、一転集中傾向の市場が異なる方向性の表現を許容していない、特定の商品を選ぶと異なる選択肢が活用できないなどの場合は発生しやすいでしょう。

しかしに日本のマンガ・アニメ・ゲームコンテンツで言えば法的規制は諸外国に比べてかなり自由度が高く、複数の読者層(老若男女)を対象とした複数の市場が共存共栄しており、なによりも複数の作品を自由気ままに購入できるくらい選択肢が多く、まさしくより取り見取りのできるすごい場所です。

女性も男性も高齢者も未成年も何も憚ることなく多種多様な表現を満喫できる日本の作品群が「圧迫」「差別的」「非許容」だというのならばそれはアニメ・マンガ・ゲームの問題ではなくて社会全体がそのような傾向があることを示していると思います。

そしてそのような主流派に対してアンチテーゼや反論をもっとも展開しやすいのが日本のアニメ・マンガ・ゲームです。原爆問題、同性愛、部落差別などについて日本のマンガは率先して取り組むことが出来ました。

社会問題に日本のマンガは60~70年代頃から取り組み始めました。アメリカのコミックでも黒人問題や民族問題について問題定義する作品がありましたが、ジャンルの傾向がヒーロー物が集中し、基本的に男の子向けの色合いが非常に強い非寛容で圧迫的なメディアでした。

アングラやミニコミで独自の表現を模索することがあっても、日本のように商業出版において多種多様な読者を相手に様々な社会的な問題をなぜアメリカのコミックは追求できなかったのでしょうか?映画や音楽ではあれだけ活発だったにも関わらず。

それはアメリカでは「マンガ害悪論」「マンガは児童向け」「表現の自由は当てはまらない」「相応しい価値観しか提示すべきではない」に基づく統治・管理・自主規制の時代が40年代から60年代まで、20年近く続いていたからだと私は考えます。

日本が世界において享受している影響力は「ロリコンマンガを弾圧してない」「下劣なエロパロが存在できる」「アニメ・マンガに囲まれた生活が出来る」「おとなになってもマンガ・アニメ・ゲームをやめない」が成立しているだと思っています。こう書くと反感を買いますが、自信を持って言えるので敢えてこのように主張しています。

繰り返しになりますが、「ロリコンマンガ弾圧してない」とは「勧善懲悪以外の作品が許容されている」ことを意味します。「エロパロが存在できる」とは「二次創作が盛んであり、誰でも創作者となれる同人文化が花開いている」ことの裏返しです。そして「アニメ・マンガに囲まれた生活」こそ「どこででも作品を購入・購買出来る強み」を代弁しており、「おとなになってもマンガ・アニメ・ゲームをやめない」は「大人の鑑賞に堪えうる多種多様な作品が複数の市場で購入できる活発な文化がある」ことに他ならないのです。

日本のアニメ・マンガ文化の欠点とされている部分が実際には非常に重要な側面を担っていることが少しでも汲み取って貰えれば幸いです。日本で「マンガ・アニメ・ゲームは文学や絵画よりも危険」「不謹慎な表現は規制されるべき」という論理で進行すればたちまち多様性も魅力も減退するでしょう。

「こんな下劣な表現さえなくなれば良い」と言うのは楽です。しかしちょっとした規制や市場の変化で日本のインフラが大きく揺らぎ、存在感がやがて風化するのを意識して頂きたいのです。一度、規制が進めば日本のマンガ・アニメ・ゲームの更なる進化・発展は海外頼みになるかもしれません。

もう既に日本のアニメ・マンガ・ゲームの文化は海外で広く浸透し、新しいクリエーターの表現手段となっています。日本のクリエーターが海外のクリエーターと競作、コラボ、刺激し合う時代が終焉しないことを心から祈っています。

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