Category Archives: research

Different Expectations on Fiction and Free Speech

As the Japanese cute girl anime/manga art style becomes evermore popular overseas, I feel a major cultural clash is unfolding. Anime, manga, and video games from Japan were still a novelty in the 90s in North America in many ways. … Continue reading

Posted in censorship, public morality and media, research | 4 Comments

Moving from the Commercial vs Doujin Dichotomy to the Open-area Public vs Closed-space Private Spectrum

I wrote a lengthy discourse on the nature of doujinshis in 2013.“Reexamining the role of Doujishi in 2013” (Japanese only)10 years have passed by since then. In the past, it was fairly easy to divide the world of Japanese manga, … Continue reading

Posted in doujinshi, research | 1 Comment

「商業vs同人」から「開かれた公的表現vs閉ざされた私的表現」へ

以前、同人誌とはなんだろうかという問いを2013年に発表した。2013年――同人誌の再定義あれから10年が経った。 これまで商業誌と同人誌という区分けで日本のマンガ・アニメ・ゲームの世界を考えることが可能だったが、ネットとコロナ禍のためにこれが大きく変わったと兼光は考えてる。 最大の変化はプラットフォームとコミュニティが紐づけされなくなったのだ。以前は雑誌ごとに読者コミュニティがあり、よりディープなマニアのコミュニティを求めるならば同人誌界へと足を踏み入れるのが当たり前だった。 この中で目立ったのが商業界と同人界の関係で相互に影響を与えながらもある程度棲み分けが確立していた。 同じ作家であっても商業と同人では違う表現の可能性を求める傾向があり、読者層も同人誌と商業誌では表現物に対する期待がやや異なる。著作権の扱いや企業視点もある程度までは同人は許容される存在であり、商業界に対する脅威と感じられることはあまりなかった印象が強い。 しかしネットの旺盛と共にプラットフォームとコミュニティの紐づけが徐々に緩み始めた。本来同人誌は「限定的に流通される非商業的個人主体表現物」という立ち位置であり、これは既存の商業誌ではできなかった可能性を模索するプラットフォームと期待されていた。 だがツィッターやYouTubeなどを活用すれば個人が瞬く間にそのコンテンツを広められるようなった。既存の商業ラインでは想定されていない作品作りや広く緩いコミュニティを自分を軸に作るようにできた。古い考え方で言えば商業出版の拡散力と同人界の濃密なコミュニティを兼ね備えた独自のプラットフォームを武器にすることができるようになったと言えるだろう。 この為に今後は商業と同人と言う区分けはなく、「開かれた公的表現(open-area public expression)」と「閉ざされた私的表現(closed-space private expression)」なる表現意図と表現背景を組み込んだ区分が有効なのではないかと考えている。 開かれた公的表現は主に商業誌の世界やマスメディアが得意とする領域だが、個人でこれを狙うことも可能であり、実際に行っている人も少なくない。 閉ざされた私的表現と言っても誰かが門戸を守っている秘密結社内の表現ではなく、同好の人間が私的領域を共有しているという前提で構築された創作の場だ。公的空間にあるにしてもそれは確固とした独自コミュニティが形成され、そこに入るには何らかの努力と理解が必要である。 ここで強調したいのだが、この両者を分ける線引きは簡単ではない。メインカルチャーとサブカルチャーの区分が簡単ではないのと同じであるが、当事者の意識や表現の意図を見ることである程度の差別化は可能ではないだろうか。また開かれた公的と閉ざされた私的表現の間にはたくさんの中間レイヤーがある。グラデーションであり、クリエーターはどちらかを選ぶことで完全にどちらかを捨てるのを強要されるわけではない。作品やジャンルも時間の経過とともにその位置をシフトさせていく可能性はいくらでもある。 大事なのは公的に共有されるのを目的とした表現なのか、もしくは独自の価値観や遊び場を保全したいと考える私的な場を意識した作品なのか――この意識がどのように働いているかを踏まえる事である。繰り返すがこの両者は完全には矛盾した目的意識ではない。しかし軸足は明確に異なるのに留意願いたい。前者は自らが世界の一部であるのを疑わず、後者は自らの世界を作りそれを他者が共有しなくても構わない理念が確固である。 突然このように結論に飛躍して申し訳ないが、このように考える理由は既存の商業誌や同人界の理念が今なお、激変した日本のアニメ・マンガ・ゲームの世界で形を変えても持ち堪えている所にある。 すなわち同人界で盛んだった「個人主体のコミュニティー作り」「内輪ネタ」「自己満足」「既存の商業出版の世界では許容されない表現」が同人誌界だけではなく、YouTubeやpixivなどの商業的投稿コンテンツ配信サイトやFantia、Patreon、pixivFANBOXなどのサブスクでも活発に続いている。古い枠組みで考えると公的で開かれた企業プラットフォームを使っていることでこれらはすべて「商業の領域」と捉えるべきだろう。しかし長年の日本にある「商業vs同人」という考え方が色々な形で継承され、「企業優先の営利目的ではない表現を気の合う仲間の間でがやがや楽しむ」のメンタルティが新しいプラットフォームで移植されていると言っても過言ではないと兼光は考えている。 すなわち「商業vs同人」の差別化は日本の表現の場では依然としてある程度機能しているが、プラットフォームが大きく変わったのだ。新しいテクノロジーに対してどのように適応したかを考えるのにこの「開かれた公的表現/閉ざされた私的表現」スペクトラムが役立つと考えている。 今後、生成AIの発達で作品の主体性が脅かされる事態が進むであろう。実際、創作作品は人の手で生まれたものであるという前提は崩れ去りつつある。しかし人が人であり続ける以上、連帯や理想を共有するという心理的渇望は変わらないと考える。作品についても作品を生み出した作者について興味が生まれ、それを軸にコミュニティーが形成されることも当分変わらないと思われる。作品ではなく作者、そしてその作品を支える同好者のコミュニティがより重要な地位を得る未来において「閉ざされた私的表現」を中心に展開する表現の場はますます重要になると思われる。 すべてがネットワークの上で共有され、その依拠性が疑わしくなった現在、同人誌のようなアナクロな世界に活路があるのであろうかという問いは避けては通れない。それではパロなど「許容された最大限自由な作品の発表の場」としての要素以外で同人誌の世界は存在し得るのであろうか?「開かれた公的表現」ではかならずしも展開しやすいわけではない、同じ趣味や価値観を共有した不特定多数向けの共通・共有・準私的な「砂場」「遊び場」として「閉ざされた私的表現」とその究極の発表手段である同人誌はまだ存在意義があると思う。 英語圏でzineの良さが再発見されたように、ネット社会でも同人誌はまだまだ担う役目があるのではないだろうか。その役割を考えるに私は今後、創作のコミュニティの役割が重要なキーワードになると考える。

Posted in doujinshi, Japanese, research | Leave a comment

2002年米国最高裁「アシュクロフト対表現の自由連合」裁判判決文和訳

もうすでに20年前の判決文です。しかしながらこれからも色々参考になるところがが多いと思います。 2002年のアシュクロフト対表現の自由連合裁判は色々な影響を残しましたが、実在しない未成年に対して実在する未成年と同じ保護を与えるのは表現の自由を歪めるという判断は画期的であり、なおかつ内心の自由なる古い権利を再確認する重要な判決だったと今なお思っています。 この翻訳は弁護士の山口貴士、兼光ダニエル真、enart(敬称略順不同)による共同作業でした。 原文はこちらで確認できます。 裁判については「アシュクロフト対表現の自由連合」で検索してください。 米合衆国連邦最高裁判所No.00 -795ジョン・D・アッシュクロフト司法長官およびその他の申立て人 対 表現の自由連合およびその外の者 2002年4月16日 法廷意見書 ケネディ判事は判決理由を申し渡した。  我々はこの訴訟において、1996年の児童ポルノ防止法(CPPA、合衆国法典タイトル18の2251条以下参照)が表現の自由を奪うものであるかを検討する。CPPAは、未成年者を描写しているように見えるが実在の児童(child)を使用せずに製作された性的に露骨な肖像(image)にまで、連邦法で禁止される児童ポルノの範囲を拡大している。法令は、特定の条件のもとにおいて、これら、未成年者のように見える成人を使用したり、コンピュータ画像処理技術(computer imaging)を使用したりして作られた肖像についても、その所持や頒布を禁じている。議会によれば、新しい技術は、実在しない児童の写実的(realistic)な肖像を作ることを可能としている。議会の答申、合衆国法典タイトル18の2251条に続く覚書参照。  Ferber判決(New York対 Ferber、458 U.S. 747頁 、1982年)は、児童を児童ポルノ製作過程での搾取から守るという国家の利益(公共の福祉)のため、他の性的に露骨な表現と児童ポルノとを区別したものであるが、実在の児童を描いていない児童ポルノを禁止することによって、CPPAはFerber判決が児童ポルノの規制を合憲とした判断の射程範囲を逸脱するものである。同上758頁参照。  一般論として、ポルノは猥褻な場合に限って禁止することが許されるが、Ferber判決は、未成年者が登場するポルノはその肖像についてMiller判決(Miller 対 California、413 U.S. 15頁、1973年)で定義される猥褻の基準への抵触を問題とすることなく、法律で禁止することを肯定している。Ferberは次のように認めている。「Millerの基準は、猥褻であるとして禁止されうるもののあらゆる一般的定義と同様に、児童の性的搾取を促進する者を訴追する国家の特別かつ切実な利益を反映しない。(458 U.S. 761頁)」  我々は次の問題について考証する機会が無かったが、性的行為を行う者の外見上の年齢は、その性的な描写が社会規範に反するかということと関係していると見なして良いと想定する。性的に露骨な行為を行う幼い児童の画像(picture)が猥褻とされるかも知れないのに対し、同様の行為をしていても、それが成人または年長の青少年のものである場合には猥褻とはされないかもしれないのである。しかしながら、CPPAは猥褻な表現を対象とするものではない。議会は、合衆国法典タイトル18の第1460条から1466条によって猥褻表現を禁止している。Ferber判決において問題とされた立法と同様に、CPPAは猥褻の範疇に属さない表現を規制しようとしており、またMillerの基準に適合しようとはしていない。例えば、CPPAによる規制は、例えそれらが充分な社会的価値を持っていたとしても、映画のような視覚的表現にも及ぼされる。  それゆえ、解決されるべき主要な問題は、Miller判決の基準で猥褻と判断されるものでもなく、またFerber判決が規制を合憲とした児童ポルノでもない表現の世界を禁止しているCPPAの合憲性である。 1 1996年以前に、議会は児童ポルノをFerber判決で論じられている種類の描写、即ち実在する未成年者を使用して作られた肖像として定義していた(合衆国法典タイトル18の2252条、1994年版)。CPPAは合衆国法典タイトル18の2256条(8)(A)による禁止を維持しつつ、禁止されるべき表現の範疇として3つを加えている。その3つのうち、第1の2256条(8)(B)と第3の2256条(8)(D)について、この訴訟において合憲性が争われた。2256条(8)(B)は、「性的に露骨な行為を行う未成年者の、またはそのように見える」、「全ての写真、映画、ビデオ、絵(picture)、コンピュータの若しくはコンピュータによって作成された肖像又は絵を含む全ての視覚的描写」を禁止している。「全ての視覚的描写」に対する禁止は、どのようにしてその肖像が作られたかということに全く左右されない。この条項は、「バーチャル児童ポルノ」と時に呼ばれる範囲の描写を禁止しており、これはコンピュータで作成された肖像を含むものである。在来の方法で作られた肖像についても同様で、例えば、法令を文字どおりに読むと、「未成年者が性的に露骨な行為を行うように見える絵」である古代神話の一場面を描いたルネッサンス期の絵画(painting)までもが規制の対象に含まれる。また、CPPAは、例え子役を使って撮影されていなくとも、青年の役者が「実際のまたは擬似の(中略)性交(2256条(2))」行う未成年者に「見える」と陪審員が認定すれば、ハリウッド映画も禁止の対象とする。  これらの肖像は、その製作の過程において児童に被害を与えないどころか、そもそも児童が製作の過程に関与していない。しかし、議会はそれらの肖像がより直接的でない他の方法で児童を脅かすとした。小児性愛者達は、児童が性的行為に加わるように仕向けるために、それらの素材を使用するかもしれない。「成人との性的行為や、性的なきわどい写真のためにポーズを取ることに抵抗のある児童も、他の児童がそのような行為に参加して『楽しんでいる』描写を見せられることで、時に納得させられる場合がある。(議会の答申、合衆国法典タイトル18の2251条に続く覚書(3)参照)。さらに、小児性愛者はポルノ肖像によって「自身の性的欲求をそそられ」、「その結果として児童ポルノの製作と配布、そして実在の児童の性的虐待と搾取を増大させる」かもしれない。同覚書(4)、(10)(B)。 これらの理論的根拠の下では、被害は肖像の製作の方法からではなく、肖像の内容から生じるものとされる。それに加えて、議会はコンピュータで作成された肖像によって生じる別の問題を指摘した。これらの存在は実在の児童を使用しているポルノ業者を訴追することを難しくする。同覚書(6)(A)参照。議会は、画像処理技術が進めば、ある絵が実在の児童を使用して生産されたということを証明することがより難しくなるとしている。実在の未成年者を使用した児童ポルノを所持している被告が訴追を免れないようにするために、議会はバーチャル児童ポルノにまで禁止の範囲を広げた。  2256条(8)(C)は、バーチャルな肖像を作成するためのより一般的で程度の低い技術的手法を禁じている。この手法はコンピュータ・モーフィング(訳注:コラージュ)として知られる。ポルノ製作者達は、自ら肖像を作るよりむしろ、実在する児童の無垢な画像を、その児童が性的行為を行っているように見えるように改変することがある。モーフィングされた肖像はバーチャル児童ポルノの定義の範囲内に入ると言ってよいのであるが、実在する児童の人権と結びついており、その意味においてFerberの判決における肖像により近い。被上告人らはこの条項については違憲性を主張しておらず、我々もこの点については判断をしない。  被上告人らは2256条(8)(D)の違憲性を主張している。「のように見える」という条項の文のように、この条項の適用される範囲は極めて広い。2256条(8)(D)は児童ポルノを、「性的に露骨な行為を行う未成年」を描いている「との印象を伝えるような方法で広告、宣伝、上演、描写または頒布」された、あらゆる性的に露骨な肖像を含むと定義している。ある委員会報告では、この条項は、児童ポルノとして触れ込みをされた性的に露骨な肖像に向けられているとされている。上院報告.No.104-358、22頁(1996年)参照(この条項は、児童ポルノ製作者と小児性愛者が、児童ポルノとして触れ込みをされる露骨に性的な肖像の製作または頒布を通じ、児童の性や性的活動への好色的興味につけ込むことを妨げている)。しかし、この法令は触れ込み行為に関係していない所持者ですら罰するものであり、適用範囲はそのようには限定されていない。即ち、一度ある作品に対し児童ポルノというレッテルが貼られると、別の所持者の手に渡った場合にも表現自体に児童ポルノであるという属性が残り、例えその他の点ではいかがわしくない場合においてすら、その所持は違法となる。 被上告人である表現の自由連合その他は、CPPAがそのメンバーの活動を脅かすのを恐れ、California北部を管轄する連邦地方裁判所に提訴した。成人娯楽産業のCalifornia同業者組合である連合は次のように申し立てた。即ち、そのメンバーは、自身の性的に露骨な作品に未成年者を使用していないが、その素材のあるものがCPPAの拡大された児童ポルノの定義に含まれるかも知れないと信じている、と言うのである。他の被上告人は、ヌーディストの生活様式を擁護する本の発行者であるBold Type社、裸体画家であるJim Gingerich、官能的(erotic)肖像を専門としている写真家のRon Raffaelliである。被上告人達は、「のように見える」と「印象を与える」という規定が過度に広汎かつ曖昧であり、修正第1条による保護を受ける作品の製作を萎縮させると主張した。連邦地方裁判所はこれを認めず、政府に有利な略式判決を下した。裁判所は、「『ロミオとジュリエット』のような性的作品のいかなる改作も『禁制品』として扱われるということは『殆どありえそうもない』という理由で、規制範囲が過度に広汎であるが故に違憲無効であるとの主張を退けた。 App. to Pet. for Cert.62a-63a. … Continue reading

Posted in censorship, child pornography issues, harmful material, Japanese, nonexistent youth, public morality and media, research | Leave a comment

萌え絵の違法性

日本においてアニメ的な配色と大きな瞳や可愛らしいとされる記号の組み合わせで構成された、いわゆる「萌え絵」が社会的に広まったのは21世紀に入ってからでしょうか。それ以前からもマンガやアニメは広く市民権を得ていましたが、アニメ・マンガ文化のサブカルチャーともいえるかもしれない美少女・BL系分派がサザエさんやドラえもんなどの作品群と肩を並べる世界に近づいたといえるのかもしれません。 さて日本国内から「日本の萌え絵は性的な要素が強く、直接エロ描写がなくても海外では児童ポルノとして捉えれるからよろしくない」や「萌え絵があまりにも広く社会的に浸透している。海外から嫌悪感どころか場合によっては違法なコンテンツなのだから身の丈をわきまえてもっと大人しくあるべきだ」という主張が2018年にちょくちょく見かけられるようになった気がします。 キズナアイをはじめとするVtuber(バーチャルYouTuber)が社会現象として話題になりはじめてからこの話題は加速しているように思えて仕方ありません。 しかしながら日本のアニメ・マンガにおいて大きな地位を占める「萌え系」が海外では社会的に不謹慎とされる主張や表現の自由の保護に入らないという主張には同意できません。制限速度を超える速度をだせる車の話を持ち出して「車は違法」というような主張に思えます。そもそも海外での規制基準は非常に多種多様なので一括りで論じることは事実誤認や歪曲へとつながりやすいと思います。 まず欧米の基準を持ち出す時には「欧米」の概念を考える必要があります。 アメリカは表現の自由を最大限保証する国として有名で、アメリカでは許容されてもカナダやドイツでは違法とされるような表現物が多々あります。 欧米諸国はは民主主義・市民生活の保全・個人の権利の保護という理念で共通点が多いと言えるでしょう。しかし、具体的にどのようにその理念を守るかについてはさまざまな取り組みを模索し続けています。国によっては驚くほど寛容ですぐ隣の国では極めてきびしかったりします。 つまり「欧米の基準」「先進国の基準」を持ち出すことは曖昧極まりないと思います。 このような欧米各国の異なる取り組み方を意識するのに加え、長い歴史的観点と多様な視点を垣間見れる鳥瞰図が大事である私は考えています。さらにはどの国にも複数の異なる基準が並列し、共存していることを忘れていけません。 さて、ここでアメリカの基準に焦点に当てたいと思います。世界で非常に影響力のある米国の表現規制や視点ですが、次の四つに大別できると思います: (1)連邦法や州法の条文基準と判例 (2)FBやTwitter等ユーザーコンテンツ共有プラットフォーム利用利用規定の基準 (3)特定のコミュニティで受け入れられた基準 (4)個人・団体が提唱する基準 ―これら全部別々です ■(1)連邦法や州法の条文基準と判例 まず(1)ですが、米国は日本と猥褻の取り扱いが大きく異なります。日本では赤裸々な性描写において陰茎と女性器に対して程度の修正を加えれば、題材やその描写の傾向など、作品の内容についてはほぼ一斉に不問とされ、当局から追求されません。これは日本国刑法175条にそのように定義されてからではなくて、猥褻図画に該当嫌疑としての当局の運用基準です。不平不満が多い基準とは思いますが、ある程度までわかりやすいのは否めません。 ときどき書き換えられるのが本当に困りますが。 しかしながら、当局が問題視して警告・逮捕・立件したとしても裁判所で結審されなければ猥褻とは認定されません。日本は米国に比べると警察と検察当局による立件基準はかなり保守的で、法廷で当局の立件が無罪と結審となるケースは少ないです。(ただ、ここ近年増えている印象はあります。) 一方、米国では猥褻は陪審員の結審によって認定されます。日本のように判事ではなく地方に根ざした陪審員が自らの価値観に導かれて違法性を考えます。市民の基準が地方地方によって大きくことなるのが特徴的です。このため、AVの撮影がロスに集中しているなどの現象が発生します。 確かに米国は想像上の未成年の性描写の違法化を1990年代から模索しています。 しかし2002年に米国最高裁はヴァーチャル児童ポルノを違法化を試みた1996年のChild Pornography Prevention Act(児童ポルノ防止法)に対して違憲と言う判断を下しました。しかも9人いる判事が6対3という割合で違憲と認定した事は当時随分話題になりました。この時に最高裁は色々な観点から実在する未成年者を含まない児童ポルノを全面禁止するのは過剰であると指摘しています。 ・同法律は表現の自由が保障されている猥褻ではない表現も違法化している。 ・児童虐待を伴う実在児童ポルノは児童の保護と福祉を踏まえ、表現の自由が守るべき範囲には含まれない。だが、児童虐待を伴わない偶像児童ポルノに同じような「表現の自由を上回る公共の福祉性を優先する必要」は当てはまらない。 ・偶像児童ポルノと実在児童を巻き込む性的虐待犯罪行為の間に明確で直接的因果関係が認められない。 ・実在児童ポルノが違法である最大の理由はその内容ではなく、その製造過程にある。 ・犯罪に使われるかもしれないという可能性だけで、それ自体が無害であるモノ・合法的に制作されたモノを違法化するのは過剰である。 ・違法行為を促がしかねないという理由だけで表現を規制することは過剰である。市民の私的思考を望ましい方向に向けるために法規制するのは不当である。 ・偶像児童ポルノが実在児童ポルノの制作を促がすという論拠は脆弱であり、実際には取扱に非常に厳しい処罰規定が伴う実在児童ポルノを偶像児童ポルノが市場から駆逐する可能性がある。 この2002年の最高裁の判決に不満を持つ人は数多く居ました。半年もしないうちに新たな法律が連邦議会で可決されて、2003年にブッシュ大統領の署名をもってProsecutorial Remedies and Other Tools to end the … Continue reading

Posted in bureaucracy, censorship, child pornography issues, harmful material, Japanese, public morality and media, research | Leave a comment

英語における兵隊の呼称

日本語で「兵士」・「兵隊」といえば軍隊全体に通用しますが、英語では それぞれの軍隊にあわせて個別の表現があります。 米陸軍、英陸軍:ソルジャー soldier 米軍愛称:グラント grunts 英軍愛称:スクワッディー squaddie 米海軍:セーラー sailor 米海軍愛称:ブルージャケット bluejacket 英海軍:シーマン seaman(セーラーも可) 英海軍愛称:ジャック、ジャック・タール Jack, Jack Tar 米海兵隊:マリーン Marine(頭文字大文字) 米海兵隊愛称:ジャーヘッド Jarheads 英王立海兵隊:ロイヤル・マリーン Royal Marine 英王立海兵隊愛称:ロイヤルズ Royals、ブートネックス Bootnecks 英米海兵隊共通愛称:レザーネックス leathernecks 米空軍:エアマン airman 英空軍:アイクラフトマン aircraftman 英陸軍航空隊:エアトルーパー airtrooper 注:パイロットと搭乗員は通常、pilotsとaircrewなどと呼称します。aviatorという表現もあります。 州兵と予備役 州兵:ガーズマン guardsmen … Continue reading

Posted in Japanese, research, translation and intercultural issues | Leave a comment

日本と海外からの視点の乖離:2008年ブラジル会議を検証

2015年10月26日に国連の「子どもの売買、児童売春、児童ポルノ」に関する特別報告者、マオド・ド・ブーアブキッキオ(Maud de Boer-Buquicchio)氏による「特に極端な児童ポルノ・コンテンツを扱った漫画は、禁止すべきだ」という発言は大きな話題を呼びました。しかしながら過去に遡るとこのように創作上の行為と現実社会での行為を類似物であるという主張が海外の国際会議では何ら珍しくありません。 兎角、日本のマンガ・アニメの現状から掛け離れた議論が展開されている例として、2008年にブラジルで開催された「第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する会議」で日本のアニメ・マンガがどのような脈絡で論じられたかを検証すべきだと思います。 以下、2008年に発表されたエクパット・インターナショナルが発表した論文からの抜粋と小生による翻訳です。 原文:Child Pornography and Sexual Exploitation of Children Online – A contribution of ECPAT International to the World Congress III against Sexual Exploitation of Children and Adolescents (Rio de Janeiro, Brazil 25-28 November) 抜粋箇所:同書の17ページから20ページ 原典は同会議オフィシャルウィブサイトに掲載もその後ドメイン失効でリンク切れの模様http://www.iiicongressomundial.net/congresso/arquivos/thematic_paper_ictpsy_eng.pdf (2015年現在リンク切れですが “Child … Continue reading

Posted in child pornography issues, harmful material, Japanese, news coverage, public morality and media, research, translation and intercultural issues | 2 Comments

2013年――同人誌の再定義

この投稿「2013年――同人誌の再定義」は「Redefining Doujinshi in 2013」という題名で全文を英訳し、公表する予定です。それに際してご意見などありましたらお気軽にお知らせください。―兼光ダニエル真 マンガ同人誌がファンの間で活発な発表媒体となってからそろそろ40年以上が経過します。マンガとアニメの世界が爆発的に広がり、様々な作品ジャンル・アニメ作品・商業マンガ雑誌の栄枯盛衰が繰り返されてきました。これにも関わらずマンガ同人誌の世界は拡大と発展を続けました。 ファンの交流の手段の一つであるマンガ同人誌文化。新しいファン交流の手段が登場するたびに紙媒体での同人誌の行く末が案じられました。 マニア同士のコミュニケーション手段である草の根BBSや新しい発表媒体であるPCゲームの登場は、同人誌即売会を脅かすどころか同人文化に更なる多様性をもたらしました。インターネットが一般化することでこれまで同人誌即売会に依存してきたファン同士の交流、そして同人誌という紙媒体を経由した作品発表の手段がネットに移行し、個人出版の形態をとった同人誌が廃れるのではないだろうかと不安がる声もありました。 しかし実際にはネットの普遍化は同人誌文化により多くの人々を引き込むこと結果となり、参加者数が激減したり発表作品が減少することもありませんでした。 同人ショップと呼称されることもある同人誌委託書店の登場、インターネットでの無断転載行為、コスプレの社会での市民圏の獲得、同人作品のネットショップの稼動、一般商業作品による同人誌界の紹介がもたらした更なる露出、オンラインにおける個人作品投稿を主眼に置いた巨大ポータルサイトの台頭、電子出版の一般化――様々な変化の波が同人文化に押し寄せるも意外なまでに同人誌の市場と存在感は揺らがず、今や企業戦略の一部の組み込まれているような時代になりました。 日米両国のファン文化の対比と交流に直接関わってきた人間としてはこの日本のマンガ同人誌文化の強かさに常に驚かせられると同時に多くの疑問を感じてきました。日本では「当たり前」な同人界がなぜ外国では希薄に思えるのか。法律や制度的には砂上の楼閣であるのは否めないにも関わらずどうやってこれほどまでにしっかり根付いているのか。様々な疑問を一つ解明できたと思えば新たな疑問が複数発生します。 翻訳家という立場上、異なる制度や文化について考える機会に私は恵まれてきました。そして海外の方々に日本のマンガ同人誌を理解して頂くにはどう紹介すべきか考えるようになり、そもそも同人誌とはなんだろうかと問うようになりました。マンガ同人誌を廻ってこれまで積み重ねられた伝統や慣習、徐々に構築されてきたインフラや常識、そしてゆっくり変貌する性質や立場について間近な立場で接しているとあまり疑問に感じません。渦中に居る人間にとっては「空気」のようなものなので意識する事があまりないのです。 私もまた日本で生まれ育ち、長年緊密に関わって来た為、同人文化については「なんとなくこうなている」という刷り込みがあります。外国人にそれを説明のを強制されなければあまり深く考えることがなかったかもしれません。 しかしながらマンガ・コミックスを廻る個人創作と発表の機会においては日本は今もなお世界一を誇っています。日本の同人誌文化はアニメ・マンガの成功に根ざしたものであり、その成功は日本独自の文化による物だという意見があります。私はこの意見を承服できません。兎角日本の同人誌文化を限って言えば、「自然」な点はほとんどなく、「こうなるべくしてこうなった」ものはほとんど無い――私はこのように確信しています。 様々な明確な決断、努力して構築された在り様、そして色々な偶然の上に今の日本の同人誌界は成り立っていると考えています。同人誌の歴史を振り返ってみると大きな転機が複数見つけられるからです。そして2013年現在、また新たな大きな転機が日本のマンガ同人誌界を巻き込んでいるように思えます。 そもそもマンガ同人誌は1970年代に定着し、そこから21世紀に変わるまでの間に爆発的な発展と遂げました。同人誌の世界が盛り上がり始めた当時、同人誌と商業誌を隔てる「境界線」は明解で、二者の違いは自明であると思えました。商業誌とは法人が何十人もの専門職を駆使して事業として公で行う商業活動であるのに対して、同人誌とは個人の趣味であり一人か少人数で本を制作し自ら販売を行い同好の人間との交流を主眼とした私的な活動である。もちろん例外はありましたが、全体像を見据えるとこのように結論するのは難しくありません。 実際、日本最大の同人誌展示即売であるコミックマーケットでは参加の条件を個人主体の自費出版であり、商業的販路では入手できないものと長年規定してきました。サークル申込書には「コミックマーケットはアマチュアの為の展示即売会です。法人、営利目的などの団体の参加は基本的にお断りします」と明記されています。もちろんプロを排除しているわけではありませんが、一般のアマチュアの参加を基準としており、参加するサークルに対して商業活動とは差別化された活動を参加条件として設けています。 コミケットは自らを同人誌などの展示即売会であると定義し、同人誌を商業販路に乗っていない個人出版と大まかに定義する一方で、オリジナル同人誌(自費出版)最大のイベントであるコミティアでは異なる基準を活用しています。企業と法人のサークル参加を受け付けない一方で、個人主体のサークル参加者によるオリジナル作品である限り商業作品の頒布も容認しています。 この一方、多くのイベントでは同人誌の定義もサークル参加の条件について明確に規定しないのが数多くあります。「同人誌即売会なのだから個人主体のサークルが商業誌ではない同人誌を売る場所」という「常識」が見え隠れするのです。これは即ち「同人誌は個人主体であり、企業や法人による出版事業は商業の世界に留まるべき」という暗黙の了解のような共通認識が強い力を発揮していると言えます。 もちろん、この共通認識は完全ではなく、時代と共に変化しています。しかしそれ自体、どのように構築されて維持されてきたのでしょう。 同人誌と商業誌が異なるというのは当たり前と思われるかもしれませんが、そもそもそのような差別化は先進国では日本でしかありません。個人が自ら娯楽を制作し、それを他人へ発信するにはそれなりの豊かさが無いと成り立ちません。アマチュアによる創作活動は欧米ではめずらしくありませんが、「同人誌」という独自のメディアの区枠は希薄そのものです。商業誌と同人誌と言う区分は設けられず、出版事業の大きいか小さいかで差別化される傾向が非常に強いのです。 ファンジン文化というのが欧米でもありますが、これは同好の人間が交流と情報配信・作品発表しる手段であるという点では日本のマンガ同人誌と似ています。事実、1970年代初頭の段階では日米の間ではファンジン文化は非常に似通っていたといえるでしょう。しかし日本ではマンガ同人誌が驚異的な発展を遂げた一方、アメコミファンジンは評論系の比重が強いままで裾野が広がることはありませんでした。1970年代、アメコミ専門店の発展に土台となった配給システムが非常に規模の小さい商業出版事業の操業を可能とさせました。この為、日本では同人誌の世界に留まるような表現もコミック出版の世界に食い込む事が出来たのです。もちろん、これらのほとんどはオリジナル作品ですが、パロディも一定の範囲内ならば商業的な展開が可能です。 米国にファンジン文化は1980年代に入ると政治色の強い社会啓蒙的執筆やニッチな趣味の交流の場としての色合いが強くなり、娯楽性に富み多くの読者を楽しませられるような作品は益々商業コミック出版の世界へと押し出されて行きました。即ち日米で共有されていた「ファンジン文化」は米国では娯楽作品と主体とした弱小出版事業と政治色やサブカル色が顕著なZine文化へと変貌していったと言えなくも無いと思います。 以上、「ファンの発行物」として日米を比較しましたが、それでは「自費出版」という区分けで比較するとどうなるでしょう。欧米でも自費出版は珍しいものではありませんが、「出版の基準に照らし合わせて劣っている図書」であるとしてvanity press(「虚栄出版」――自己顕示欲から生み出された見栄の固まり)というレッテルが長い間定着しています。ネットと電子出版がもたらした「情報の配信の民主化」と弱小出版社の脆弱化から自費出版は見直されていますが、「良い原稿ならば出版社がいつかは拾い上げる」「出版社から受理されない本は劣っている」という偏見は今尚強いと言っても過言ではないでしょう。 またマンガ作品に限って言えば、ファンジンという形態では頒布するには日本の即売会のような頒布する機会は限定されており、結局の所は郵便による通信販売が大きな比重を占めます。こうなると多少背伸びしてもアメコミ専門店の配給システムに乗せることが非常に魅力的に見えてきます。 つまり日本のように「商業出版では出来なくとも同人出版ならば出来る」という発想自体がないのです。すべて規模か優劣の問題であり、「同人ならば許される」というような棲み分けがなく、同人出版そのものの魅力的が日本に比べると弱いといえるかも知れません。 絶対的価値観が顕著な欧米では不特定多数の他人の目に届くような活動については等しく法の下で判断されます。もちろんゲリラ活動的な執筆・出版行為は主にZine文化の範疇で行われていますが、これらは政治色が強い創作活動や社会的メッセージ性が強い著作物以外ではあまり見かけられません。 逆に日本では相対的価値観が強く、「アマチュアの範囲ならば追及しない」「ほどほどに弁えているならば相手にファンの関心が向うような機会を与えたくない」「同人ファン活動に留めている限りとやかく言わない」など通常の出版社が行えば問題になるような二次創作的著作物でも同人誌ならば黙認する傾向があります。もちろん法律ではこのような例外規定はありません。しかし多くの著作権や出版に廻る法律規定は親告罪であったり、解釈の猶予があるためにこのような差別化を内在した棲み分けを奨励する状況を生み出しています。 しかし日本では相対的価値観が強いと言っても娯楽コンテンツ全般に対して同じような許容的姿勢を示しているというわけではありません。「玩具模型の中における同人誌」とも言えるようなガレージキットは当初は趣味の範囲、私的領域から派生したにも関わらず現在では企業の承認なくして他人と共有する事が出来ません。音楽についてはかなり強大な権利団体が関連する知的財産権について例外なく追及する姿勢を示しているのは周知の事実ですし、警察も猥褻の追及については同人誌に対して当初黙認していたのも1991年を境に追求するようになりました。つまり現在の同人文化は必然ではなかったと考えられるのです。 私は日本語の同人誌を英訳する際に色々な表現を模索しました。しかし数年掛けて思案した結果、最終的には「doujinshi」(若しくはd?jinshi)がもっとも適当と感じ、この表現を率先して使ってきました。1995年頃の話です。このような結論に至って最大の理由は「同人誌は日本において独自に進化したメディアであり、その歴史や形態において他国の出版文化とは大きく異なるので置換は不可能」と思ったからです。 同好の人間が原稿を持ち寄せ、生み出された本を志を共有する人間と共有する行為は少なくとも明治まで戻りますが、マンガで同じような活動が活発になったのは60年代以降です。1950年から1960年まで石ノ森章太郎が執筆・編集した『墨汁一滴』がほぼ確実に日本初のマンガ同人誌ですが、この本は肉筆回覧版形式(原本が一冊しかなく、それを代わる代わる会員が読む)だった為に、現在の同人誌の形態がから大きく異なります。1960年代に入ると謄写版(ガリ版)[mimeograph]の普及とマンガ文化の発達を伴って、現在の同人誌文化へと大きく近寄ります。各学校のマンガの同好会などで(1)プロ以外の人間が(2)仲間達に提供するのを目的で原稿を執筆し(3)複製印刷物を用意し提供していました。現在の同人誌の定義とかなり近づいていますが、この当時制作された同人誌が提供さえる場所は学園祭・地元の本屋さん・学校のクラスメートへの提供と、地域的に限定されていました。 SF大会など、地方や日本全国から人間が集まる会合が70年代に入ると大幅に増え始めます。コミケットもこの流れの一つに数えられますが、この段階で大きな転換期が訪れます。それまでは同好の人間が趣味の対象を色々な形で祭りました――上映会の開催、ゲストの招待、様々な作品の展示即売会、古書の取引、商業誌先行販売、サイン本提供など盛り沢山でした。しかし1975年のコミケットの開催を境に「同人誌が催しの主役」という形式が根付き始めます。 つまり「(1)プロ以外の人間が(2)仲間達に提供するのを目的で原稿を執筆し(3)複製印刷物を用意する」の三点に「(4)展示即売会会場という領域において限定された不特定多数に対して 頒布」が追加されたのです。 またこの四点はこの時期に急激に変貌を開始します。そもそもコミケットが開催された理由の一つが「商業マンガの作品が画一的に成り始めた」「商業作家が実験的作品が描ける場を提供したい」というのがあります。つまりアマチュアだけのイベントというよりも商業作家も実験できる商業とは違う発表の場という理念が最初からコミケットでは提示されており、これは他の同人誌即売会にも影響を及ぼします。 マンガ・アニメが爆発的な人気を誇り、二者共に若者が自らの文化であると自負できる時代が到来します。マンガは自己表現の最先端の一つであり、マンガに関わる人間も急激に増大します。この為にコミケットのみならず、複数のマンガ同人誌イベントが複数開催され、参加者数は見る見るうちに増えます。商業界も細分化が始まり、多種多様な創作ジャンルが花開き、作家の数も爆発的に増えた1980年代。商業出版においてニッチな趣味性の強い書籍も大量に出回り始め、商業作家が同人誌活動を通して趣味や遊びに興じるというのが珍しくなくなります。同人誌の執筆者の多様性が大きく広がり始めたのです。 1980年代、もう一つ重要な変化が日本のマンガ同人誌の世界に訪れます。同人誌においてオフセット印刷が急激に増え、80年代中盤に於いては商業誌にまったく引けを取らないような同人誌の印刷が可能となったのです。 私のコミケットとの接点はTRCで最後に開催されたC33(1987年の冬)から始まりました。コミケットが大規模イベントとしての礎がかなり固まり始めた時期であり、小規模ながら同人誌の委託販売を受け持ってくれる書店も出現していました。 1980年代後半になると誌面に掲載された内容のみでは商業誌か同人誌かは判断しにくくなり始めます。言うまでも無く同人誌の方が平均値で言えば商業誌より劣っているも、商業作品よりも質の高い作品が急速に増え始めたのです。 商業誌の掲載作品でもパロディがあったり、かなり荒削りな作品があったり、お世辞にもうまいとはいえない作家の作品が沢山ありました。逆に同人誌でも商業誌掲載作品と見間違うようなオリジナル作品や、高度な編集技術の紙面作り、かなり大きな規模の団体による共同執筆活動も複数ありました。 … Continue reading

Posted in doujinshi, Japanese, research, translation and intercultural issues | 4 Comments

Analyzing the State of the Anime and Manga industry in 2012

Someone asked me via a personal message what would be some good ways of thinking about the anime and manga industry and how to improve things. My response grew quite long, so I thought I’d share it with everyone. 1) … Continue reading

Posted in research | 9 Comments