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総合格闘技としての翻訳とその憂鬱

個人的にはまだまだ手探りしている気分ですが、25年も翻訳稼業を続けているとアドバイスを求められる事があります。例えば若い学生さんから「翻訳家になるにはどんな講義を受けた方が良いですか?」と尋ねられます。 作品を生み出した言語圏を理解する事は大事ですが、実はそれは始まりでしかありません。 その作品を生み出した文化、社会、歴史を知らないと作中の記述やネタに気付かないこと発生します。しかし実際にはこれでもまだまだ不充分で、作品の演出論やその作品がどのような背景から生み出されたかを把握しないと原作を読んだ人がそれをどう受け止めたかを理解出来ません。 作品を生んだ言語を知り、作者が生まれ育った世界を知り、その作品を受け止めた読者の視点を知ることは大変ですが、実はこれでもまだ足りません。 翻訳とは言語の置換ではなく、文化の掛け橋だからです。 翻訳を受け止める読者の視点もとても大事だからです。そもそも外国の作品を万人向けに翻訳るのか、それとも海外文化に関心を持つ人間を念頭に翻訳すべきなのか、狙うべき市場を考える必要があります。市場は刻一刻と変化するので、昔は成功した方法論でも失敗する事があります。また、特定の市場を意識し過ぎて原作の良さを蔑ろにするような事態も時々発生します。結構地雷だらけです。 そして原作の「声」を見つけ、それをあなた自身の「声」で表現する必要があります。 恋愛物が苦手だったり科学用語が沢山ある作品は避けたいなど、翻訳者も人間ですから得手不得手があります。しかし作品の表層を見てもその作品の本質は見えない事があります。作品に接する時、最初に見えるのは取り扱われている題材ですが、実際には作品の本質は違うところにあります。黒澤映画の『羅生門』も年末放映される『忠臣蔵』も時代劇ですが、その本質は明らかに異なります。人間性を問い直す作品が得意な人もいれば、仁義や忠誠心を主題とした作品が苦手な人もいます。他者の作品の本質を知るだけではなく、自らの感受性や作品性を理解することも非常に重要です。 文学や文化論などで物語の構成やその作品の意義について考え、翻訳に接する読者に意図するメッセージを伝える能力も翻訳家には必要です。原作の方向性をきちんと把握出来なければ、自ら担当すべきかも判断出来ないですし、翻訳の方向性やどのような市場にその翻訳作品は向いているかを検討することもできません。 翻訳は基本的に個人作業ですが、色々な方々と連携することが求められます。原作者と対話したり編集者と議論したりするだけに留まることもありますが、アニメや映画など複数のメディアや広報活動を交えた展開の場合は上手い人間関係の構築も必須です。 かなりの知識や技能、そして創作の手腕も求められるのに対してその報酬はささやかな事が多いですが、「翻訳されているのは当たり前!翻訳なんて機械的な作業だろう」という考え方を持っている方々が大多数いる国もあります。まあ、ぶっちゃっけアメリカのことなんですが。 そもそも翻訳よりもリメイクについて熱心な業界関係者が多いのがアメリカです。良い日本映画を見た後に出てくる褒め言葉が「素晴らしい!ハリウッドで作り直そう」というなることが多々あります。正直、日本のアニメやマンガがアメリカで人気を博し、日本文化特有の表現や様式美に魅了されている方々がかなりの数が存在する事に今だ驚いています。他国の文化をそのまま受け入れる事がこれまで少なかったアメリカの歴史を知っている身としては俄かに信じられない状況なのです。 日本のアニメやマンガがアメリカで市民権を得ていることは事実ですが、今だ「少数派の市民権」です。ハリウッド作品やニューヨーク出版界の書物と肩を並べているというわけでありません。少なくとも2015年の現在の段階では。 日本の作品は特定の方々の間では熱狂的な人気を誇っており、ファンの方々の中には自ら日本語を勉強してそれらの作品を翻訳する方々も少なくありません。日本の作品に関心があって日本語や日本文化を勉強することは素晴らしいですし、翻訳について色々試行錯誤を重ねて切磋琢磨することは日米の文化交流に大きな貢献をしていると私は信じます。 ところが一般の読者や視聴者の間では翻訳についてあまり関心が無いために翻訳という作業手順についての付加価値はあまり認められていません。日本のアニメ作品やマンガ作品の北米版のパッケージや表紙には誰が翻訳したのか書かれていないのが普通です。その作品の解釈についての門番役であるにも関わらず、読者・視聴者の間では翻訳家の存在は希薄そのものです。 更に日本のアニメ・マンガ・ゲームの熱狂的なファンがひどい賃金でも構わないので翻訳をしたがります。また逆に公式版の翻訳では色々な制限があることから「公式翻訳には愛が無い」と自ら制作したスキャンレーション(翻訳がはめ込まれたマンガ取り込み画像)やファンサブ(字幕が追加された動画)を配布することもあります。 これは翻訳の質以前の問題で、翻訳業を営むのに大きな障害を孕む状況であることは否めない事実です。 このような翻訳の質の劣化に対して通常ならば原作の権利側、つまり日本の制作者側が監修したり指導することで対抗できそうなものですが、実際にはほとんど行われていません。大よそ二つパターンがあり、「海外については海外に任せよう」と「そもそも翻訳の質を見極める能力が無い」に大別できます。また更に作品の傾向などについて公式翻訳を担当している側から資料を求めても「作品の内包されている情報以外はありません」とこのような問い合わせを邪険にする日本の制作者もいるくらいです。 また更に海外について関心があっても言語・文化的なフォローできる人間が日本のアニメ・マンガ業界では圧倒的に足りないという問題があります。そもそも現場が薄給で耐えてる業界において銃後の守りに相当する部署に予算を振り向ける余裕などがないのが一つの現実です。 このような逆境の中で私が翻訳や作品作りに貢献し続けなんとか生活できるということは非常にありがたい限りです。しかしながら翻訳について関心が今だ根強い日本で今のところ何とか踏ん張っているという状況ですから、今後市場が縮小するのを考えると決して楽観視できません。 今だ日本では世界各国のすばらしい作品に接することが出来ますが、やがて中国語か英語でしか他国の作品を楽しめなくなる時代が来る可能性があります。一億人以上が喋る言語は世界では10言語しかありませんが、日本語はその一つであることをもっと誇りにして、外国に啓蒙する努力を今まで以上に頑張ってもらいたいものです。 質問した学生への返事に戻りますが、日本の作品は日本語だけではなく日本の歴史や価値観・美意識は繋がっています。日本の作品を海外に広める上でそう言った側面も大事にして行かなければならないと思います。

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