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日本コンテンツと海外プラットフォーム

最近の作成AIコンテンツや物語性を含まない居心地の良いコンテンツ作りを見ていて憂慮するすることは色々ある。 ネットでただで享受できるコンテンツが爆発的に増えただけならいざ知らず、それらを配布するプラットフォームが一点集中し、興行的成功の落差が激しくなっている。これに加えて作成AIを用いることで一見精度の高そうに見える創作物を大量の生み出され、いわばダンピングが行われてしまい、人の手で創る創作活動が押されている側面は否定できないと思う。 またどんなコンテンツも大手国際プラットフォームの論理や営利主軸に左右されるような状況になっていることに対する危機感はどれだけ共有できているのだろうか。 私のような昭和45年(1970年)前後に生まれた日本人のオタクにとってちょうどマンガ・アニメ・ゲーム・模型・TV・ラジオ・小説・雑誌がかなり豊かな土壌だったように思えて仕方ない。流行り廃りはあるも、いろいろな作品が並列して存在し、国内海外の多様な作品や題材を礎にして同人誌即売会や草根のBBS、初期のWWWで色々な文化を作ることができた。いま思うと今取り沙汰されている日本のサブカルの相当な要素があの時代に爆発的に発展したと思ってる。 今も日本のサブカル文化は活発だし、新しい表現がどんどん増えている。でも当時に比べると単純な創作行為で生活を維持したり、製作コストを回収するのがかなり難しくなってしまった。20年前の雑誌とかみると信じられないほどマニアックな商業誌やソフトがあり、それこそ同人誌や同人ソフトになると当時の多様性と経済的熱量は眩暈するようなすごさがあった。繰り返すが今もその流れは途切れていない。YouTubeやニコニコ動画でも熱心に続けている人は少なくない。 しかしながら団塊ジュニアという数の論理がプラスで働き、相当活発な市場が形成・維持されていたのはないだろうか。もちろん当時でもお金を落としたくない人はそれこそ海賊版同人誌を買ったり、ネットから「割れ」(違法にアップロードされて、権利者の許可なく使用するソフトのネット用語)をダウンロードしたりしていたが、同時に正規で買い支える層がそれなりにあったので業界全体としては帳尻あわせある程度設立していたと言っても過言ではないと思っている。 しかし現在はコンテンツもどんどん細分化し、これまで有償でコンテンツをもっとも買い支える中間層が疲弊し、物語や作家性を支える意欲も購買層も減退したのではないかと錯覚することがある。皮肉なことにこれは世界最大のアニメ・マンガ・ゲームの市場である日本国内で起きてる話であり、海外の方がまだ伸びしろがあるように思える。(私個人の主観でしかないが、実際に翻訳の仕事をしている身としては英和よりも和英が圧倒的に多いのは事実である。) 理由は簡単で人口動向と経済的に日本が伸び悩んでいる一方で、海外では日本コンテンツを支える人間が増え、さらに経済的にも日本よりもやや上向いているのが大きな要因ではないだろか。 1970年代と1980年代、日本は電子立国と世界中で知られて羨望の的であった。いま振り返れば実際には色々な歪な産業形態であったことは自明だが、一つ確実に言えることはIT系において主導権を失われていくことに対して危機感が足りなかったことは言える。それぞれの企業が自らの立ち位置を守るために雇用削減で就職氷河期を生み出し、円高忌避で海外に工場移転させ、その後も正規社員を増やしたくないために非正規雇用形態を促進させてしまった。 気付けば日本のIT企業は再び海外の下請けという状況へとなった側面があるのではないだろうか。がんばっている会社やプロジェクトはあるだろう。しかし独自アーキテクチャ、独自市場、独自価値観を打ち出せない業種は国際競争の前に淘汰されやすいのは否めない。 今、日本のマンガ・アニメ・ゲームなどのオタクコンテンツの市場規模は国内では伸び悩み、海外の方が伸びしろがある。しかしここでまた海外プラットフォームに依存してしまうとバブル期の日本電子産業の二の舞になりかねないように思えて怖い。現時点では魅力的なコンテンツをたくさん生み出しているのだから、それをテコにして作品発表プラットフォームや日本の創作を可能としている表現の自由をさらに推し進め、海外のクリエーターが日本で創作することがもっとも都合よいというところまでたどり着けないといけないと思っている。 日本は際限なく成長できる市場である必要はないが多種多様な創作者の揺りかごにはなれる。揺りかごで切磋琢磨し、生み出された作品を世界に発信して、それが日本を少しでも豊かにするのは決して非現実的ではないと確信している。日本に強い魅力を感じている方々がまだいる現時点おいてはこれは実現可能な活路ではないだろうか。しかしこの活路はほおっておけばやがて閉じる可能性が高いことを我々は忘れてはならないと思っている。

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「商業vs同人」から「開かれた公的表現vs閉ざされた私的表現」へ

以前、同人誌とはなんだろうかという問いを2013年に発表した。2013年――同人誌の再定義あれから10年が経った。 これまで商業誌と同人誌という区分けで日本のマンガ・アニメ・ゲームの世界を考えることが可能だったが、ネットとコロナ禍のためにこれが大きく変わったと兼光は考えてる。 最大の変化はプラットフォームとコミュニティが紐づけされなくなったのだ。以前は雑誌ごとに読者コミュニティがあり、よりディープなマニアのコミュニティを求めるならば同人誌界へと足を踏み入れるのが当たり前だった。 この中で目立ったのが商業界と同人界の関係で相互に影響を与えながらもある程度棲み分けが確立していた。 同じ作家であっても商業と同人では違う表現の可能性を求める傾向があり、読者層も同人誌と商業誌では表現物に対する期待がやや異なる。著作権の扱いや企業視点もある程度までは同人は許容される存在であり、商業界に対する脅威と感じられることはあまりなかった印象が強い。 しかしネットの旺盛と共にプラットフォームとコミュニティの紐づけが徐々に緩み始めた。本来同人誌は「限定的に流通される非商業的個人主体表現物」という立ち位置であり、これは既存の商業誌ではできなかった可能性を模索するプラットフォームと期待されていた。 だがツィッターやYouTubeなどを活用すれば個人が瞬く間にそのコンテンツを広められるようなった。既存の商業ラインでは想定されていない作品作りや広く緩いコミュニティを自分を軸に作るようにできた。古い考え方で言えば商業出版の拡散力と同人界の濃密なコミュニティを兼ね備えた独自のプラットフォームを武器にすることができるようになったと言えるだろう。 この為に今後は商業と同人と言う区分けはなく、「開かれた公的表現(open-area public expression)」と「閉ざされた私的表現(closed-space private expression)」なる表現意図と表現背景を組み込んだ区分が有効なのではないかと考えている。 開かれた公的表現は主に商業誌の世界やマスメディアが得意とする領域だが、個人でこれを狙うことも可能であり、実際に行っている人も少なくない。 閉ざされた私的表現と言っても誰かが門戸を守っている秘密結社内の表現ではなく、同好の人間が私的領域を共有しているという前提で構築された創作の場だ。公的空間にあるにしてもそれは確固とした独自コミュニティが形成され、そこに入るには何らかの努力と理解が必要である。 ここで強調したいのだが、この両者を分ける線引きは簡単ではない。メインカルチャーとサブカルチャーの区分が簡単ではないのと同じであるが、当事者の意識や表現の意図を見ることである程度の差別化は可能ではないだろうか。また開かれた公的と閉ざされた私的表現の間にはたくさんの中間レイヤーがある。グラデーションであり、クリエーターはどちらかを選ぶことで完全にどちらかを捨てるのを強要されるわけではない。作品やジャンルも時間の経過とともにその位置をシフトさせていく可能性はいくらでもある。 大事なのは公的に共有されるのを目的とした表現なのか、もしくは独自の価値観や遊び場を保全したいと考える私的な場を意識した作品なのか――この意識がどのように働いているかを踏まえる事である。繰り返すがこの両者は完全には矛盾した目的意識ではない。しかし軸足は明確に異なるのに留意願いたい。前者は自らが世界の一部であるのを疑わず、後者は自らの世界を作りそれを他者が共有しなくても構わない理念が確固である。 突然このように結論に飛躍して申し訳ないが、このように考える理由は既存の商業誌や同人界の理念が今なお、激変した日本のアニメ・マンガ・ゲームの世界で形を変えても持ち堪えている所にある。 すなわち同人界で盛んだった「個人主体のコミュニティー作り」「内輪ネタ」「自己満足」「既存の商業出版の世界では許容されない表現」が同人誌界だけではなく、YouTubeやpixivなどの商業的投稿コンテンツ配信サイトやFantia、Patreon、pixivFANBOXなどのサブスクでも活発に続いている。古い枠組みで考えると公的で開かれた企業プラットフォームを使っていることでこれらはすべて「商業の領域」と捉えるべきだろう。しかし長年の日本にある「商業vs同人」という考え方が色々な形で継承され、「企業優先の営利目的ではない表現を気の合う仲間の間でがやがや楽しむ」のメンタルティが新しいプラットフォームで移植されていると言っても過言ではないと兼光は考えている。 すなわち「商業vs同人」の差別化は日本の表現の場では依然としてある程度機能しているが、プラットフォームが大きく変わったのだ。新しいテクノロジーに対してどのように適応したかを考えるのにこの「開かれた公的表現/閉ざされた私的表現」スペクトラムが役立つと考えている。 今後、生成AIの発達で作品の主体性が脅かされる事態が進むであろう。実際、創作作品は人の手で生まれたものであるという前提は崩れ去りつつある。しかし人が人であり続ける以上、連帯や理想を共有するという心理的渇望は変わらないと考える。作品についても作品を生み出した作者について興味が生まれ、それを軸にコミュニティーが形成されることも当分変わらないと思われる。作品ではなく作者、そしてその作品を支える同好者のコミュニティがより重要な地位を得る未来において「閉ざされた私的表現」を中心に展開する表現の場はますます重要になると思われる。 すべてがネットワークの上で共有され、その依拠性が疑わしくなった現在、同人誌のようなアナクロな世界に活路があるのであろうかという問いは避けては通れない。それではパロなど「許容された最大限自由な作品の発表の場」としての要素以外で同人誌の世界は存在し得るのであろうか?「開かれた公的表現」ではかならずしも展開しやすいわけではない、同じ趣味や価値観を共有した不特定多数向けの共通・共有・準私的な「砂場」「遊び場」として「閉ざされた私的表現」とその究極の発表手段である同人誌はまだ存在意義があると思う。 英語圏でzineの良さが再発見されたように、ネット社会でも同人誌はまだまだ担う役目があるのではないだろうか。その役割を考えるに私は今後、創作のコミュニティの役割が重要なキーワードになると考える。

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2002年米国最高裁「アシュクロフト対表現の自由連合」裁判判決文和訳

もうすでに20年前の判決文です。しかしながらこれからも色々参考になるところがが多いと思います。 2002年のアシュクロフト対表現の自由連合裁判は色々な影響を残しましたが、実在しない未成年に対して実在する未成年と同じ保護を与えるのは表現の自由を歪めるという判断は画期的であり、なおかつ内心の自由なる古い権利を再確認する重要な判決だったと今なお思っています。 この翻訳は弁護士の山口貴士、兼光ダニエル真、enart(敬称略順不同)による共同作業でした。 原文はこちらで確認できます。 裁判については「アシュクロフト対表現の自由連合」で検索してください。 米合衆国連邦最高裁判所No.00 -795ジョン・D・アッシュクロフト司法長官およびその他の申立て人 対 表現の自由連合およびその外の者 2002年4月16日 法廷意見書 ケネディ判事は判決理由を申し渡した。  我々はこの訴訟において、1996年の児童ポルノ防止法(CPPA、合衆国法典タイトル18の2251条以下参照)が表現の自由を奪うものであるかを検討する。CPPAは、未成年者を描写しているように見えるが実在の児童(child)を使用せずに製作された性的に露骨な肖像(image)にまで、連邦法で禁止される児童ポルノの範囲を拡大している。法令は、特定の条件のもとにおいて、これら、未成年者のように見える成人を使用したり、コンピュータ画像処理技術(computer imaging)を使用したりして作られた肖像についても、その所持や頒布を禁じている。議会によれば、新しい技術は、実在しない児童の写実的(realistic)な肖像を作ることを可能としている。議会の答申、合衆国法典タイトル18の2251条に続く覚書参照。  Ferber判決(New York対 Ferber、458 U.S. 747頁 、1982年)は、児童を児童ポルノ製作過程での搾取から守るという国家の利益(公共の福祉)のため、他の性的に露骨な表現と児童ポルノとを区別したものであるが、実在の児童を描いていない児童ポルノを禁止することによって、CPPAはFerber判決が児童ポルノの規制を合憲とした判断の射程範囲を逸脱するものである。同上758頁参照。  一般論として、ポルノは猥褻な場合に限って禁止することが許されるが、Ferber判決は、未成年者が登場するポルノはその肖像についてMiller判決(Miller 対 California、413 U.S. 15頁、1973年)で定義される猥褻の基準への抵触を問題とすることなく、法律で禁止することを肯定している。Ferberは次のように認めている。「Millerの基準は、猥褻であるとして禁止されうるもののあらゆる一般的定義と同様に、児童の性的搾取を促進する者を訴追する国家の特別かつ切実な利益を反映しない。(458 U.S. 761頁)」  我々は次の問題について考証する機会が無かったが、性的行為を行う者の外見上の年齢は、その性的な描写が社会規範に反するかということと関係していると見なして良いと想定する。性的に露骨な行為を行う幼い児童の画像(picture)が猥褻とされるかも知れないのに対し、同様の行為をしていても、それが成人または年長の青少年のものである場合には猥褻とはされないかもしれないのである。しかしながら、CPPAは猥褻な表現を対象とするものではない。議会は、合衆国法典タイトル18の第1460条から1466条によって猥褻表現を禁止している。Ferber判決において問題とされた立法と同様に、CPPAは猥褻の範疇に属さない表現を規制しようとしており、またMillerの基準に適合しようとはしていない。例えば、CPPAによる規制は、例えそれらが充分な社会的価値を持っていたとしても、映画のような視覚的表現にも及ぼされる。  それゆえ、解決されるべき主要な問題は、Miller判決の基準で猥褻と判断されるものでもなく、またFerber判決が規制を合憲とした児童ポルノでもない表現の世界を禁止しているCPPAの合憲性である。 1 1996年以前に、議会は児童ポルノをFerber判決で論じられている種類の描写、即ち実在する未成年者を使用して作られた肖像として定義していた(合衆国法典タイトル18の2252条、1994年版)。CPPAは合衆国法典タイトル18の2256条(8)(A)による禁止を維持しつつ、禁止されるべき表現の範疇として3つを加えている。その3つのうち、第1の2256条(8)(B)と第3の2256条(8)(D)について、この訴訟において合憲性が争われた。2256条(8)(B)は、「性的に露骨な行為を行う未成年者の、またはそのように見える」、「全ての写真、映画、ビデオ、絵(picture)、コンピュータの若しくはコンピュータによって作成された肖像又は絵を含む全ての視覚的描写」を禁止している。「全ての視覚的描写」に対する禁止は、どのようにしてその肖像が作られたかということに全く左右されない。この条項は、「バーチャル児童ポルノ」と時に呼ばれる範囲の描写を禁止しており、これはコンピュータで作成された肖像を含むものである。在来の方法で作られた肖像についても同様で、例えば、法令を文字どおりに読むと、「未成年者が性的に露骨な行為を行うように見える絵」である古代神話の一場面を描いたルネッサンス期の絵画(painting)までもが規制の対象に含まれる。また、CPPAは、例え子役を使って撮影されていなくとも、青年の役者が「実際のまたは擬似の(中略)性交(2256条(2))」行う未成年者に「見える」と陪審員が認定すれば、ハリウッド映画も禁止の対象とする。  これらの肖像は、その製作の過程において児童に被害を与えないどころか、そもそも児童が製作の過程に関与していない。しかし、議会はそれらの肖像がより直接的でない他の方法で児童を脅かすとした。小児性愛者達は、児童が性的行為に加わるように仕向けるために、それらの素材を使用するかもしれない。「成人との性的行為や、性的なきわどい写真のためにポーズを取ることに抵抗のある児童も、他の児童がそのような行為に参加して『楽しんでいる』描写を見せられることで、時に納得させられる場合がある。(議会の答申、合衆国法典タイトル18の2251条に続く覚書(3)参照)。さらに、小児性愛者はポルノ肖像によって「自身の性的欲求をそそられ」、「その結果として児童ポルノの製作と配布、そして実在の児童の性的虐待と搾取を増大させる」かもしれない。同覚書(4)、(10)(B)。 これらの理論的根拠の下では、被害は肖像の製作の方法からではなく、肖像の内容から生じるものとされる。それに加えて、議会はコンピュータで作成された肖像によって生じる別の問題を指摘した。これらの存在は実在の児童を使用しているポルノ業者を訴追することを難しくする。同覚書(6)(A)参照。議会は、画像処理技術が進めば、ある絵が実在の児童を使用して生産されたということを証明することがより難しくなるとしている。実在の未成年者を使用した児童ポルノを所持している被告が訴追を免れないようにするために、議会はバーチャル児童ポルノにまで禁止の範囲を広げた。  2256条(8)(C)は、バーチャルな肖像を作成するためのより一般的で程度の低い技術的手法を禁じている。この手法はコンピュータ・モーフィング(訳注:コラージュ)として知られる。ポルノ製作者達は、自ら肖像を作るよりむしろ、実在する児童の無垢な画像を、その児童が性的行為を行っているように見えるように改変することがある。モーフィングされた肖像はバーチャル児童ポルノの定義の範囲内に入ると言ってよいのであるが、実在する児童の人権と結びついており、その意味においてFerberの判決における肖像により近い。被上告人らはこの条項については違憲性を主張しておらず、我々もこの点については判断をしない。  被上告人らは2256条(8)(D)の違憲性を主張している。「のように見える」という条項の文のように、この条項の適用される範囲は極めて広い。2256条(8)(D)は児童ポルノを、「性的に露骨な行為を行う未成年」を描いている「との印象を伝えるような方法で広告、宣伝、上演、描写または頒布」された、あらゆる性的に露骨な肖像を含むと定義している。ある委員会報告では、この条項は、児童ポルノとして触れ込みをされた性的に露骨な肖像に向けられているとされている。上院報告.No.104-358、22頁(1996年)参照(この条項は、児童ポルノ製作者と小児性愛者が、児童ポルノとして触れ込みをされる露骨に性的な肖像の製作または頒布を通じ、児童の性や性的活動への好色的興味につけ込むことを妨げている)。しかし、この法令は触れ込み行為に関係していない所持者ですら罰するものであり、適用範囲はそのようには限定されていない。即ち、一度ある作品に対し児童ポルノというレッテルが貼られると、別の所持者の手に渡った場合にも表現自体に児童ポルノであるという属性が残り、例えその他の点ではいかがわしくない場合においてすら、その所持は違法となる。 被上告人である表現の自由連合その他は、CPPAがそのメンバーの活動を脅かすのを恐れ、California北部を管轄する連邦地方裁判所に提訴した。成人娯楽産業のCalifornia同業者組合である連合は次のように申し立てた。即ち、そのメンバーは、自身の性的に露骨な作品に未成年者を使用していないが、その素材のあるものがCPPAの拡大された児童ポルノの定義に含まれるかも知れないと信じている、と言うのである。他の被上告人は、ヌーディストの生活様式を擁護する本の発行者であるBold Type社、裸体画家であるJim Gingerich、官能的(erotic)肖像を専門としている写真家のRon Raffaelliである。被上告人達は、「のように見える」と「印象を与える」という規定が過度に広汎かつ曖昧であり、修正第1条による保護を受ける作品の製作を萎縮させると主張した。連邦地方裁判所はこれを認めず、政府に有利な略式判決を下した。裁判所は、「『ロミオとジュリエット』のような性的作品のいかなる改作も『禁制品』として扱われるということは『殆どありえそうもない』という理由で、規制範囲が過度に広汎であるが故に違憲無効であるとの主張を退けた。 App. to Pet. for Cert.62a-63a. … Continue reading

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『デウス・エクス・アートマキナ』:作画AIによる日本オタク界への大局的影響を考える

画像:2022年10月の段階で三つの作画AIに「女の子、キツネ耳、白耳、白尻尾、ぴっちりボディスーツ、だぼだぼジャケット、秋葉原、夜の街、雨、路面に反射」などと入力した出力した結果。絵柄は指定しておらずそれぞれの作画AIのデフォルトスタイルである。 ■今回の騒動の背景を少々…… 作画AIが及ぼす影響について日本のクリエーターや受け手側の間でかなり憂慮する声が広がっています。この10年、機械学習の躍進とそれが社会に及ぼした影響はすさまじいの一言としか言いようがないと思います。機械翻訳の質が飛躍的に向上したことによって一般的な会話であれば機械によってその内容が判別され、多言語へと置き換えることが可能となったことに目を見張らせた人は少なくないでしょう。AI——人工知能は一つの流行り文句となりエアコンの設定温度から脱税行為を見つける仕組みにまで関連付けられるようになっています。絵の世界においても2000年以前からユーザーの描く線を補正し、アニメーションをより滑らかにする機能で貢献してきました。 しかしさすがに誰もAIアルゴリズムの向上で人が書いたイラストを再現できるとは予想できなかったでしょう。 コンピューターがチェスで人間より優れるようになるにはかなりの年月が掛かりました。しかし2022年の夏の数か月の間でコンピューターが作成するイラストの完成度は目覚ましい速度で成熟を推し進め、夏が終わることには作品によっては人が描いたのかAIが描いたのかを訓練された絵描きであっても見分けしにくい作品がどんどん増えています。 2022年7月、Midjourneyがかなり高度なイラストをテキスト入力された内容に合わせて作成できるということでネットで話題が沸騰しました。これまでも画像を作成できるAIシステムはありましたが、Midjourneyは西洋絵画などを軸足にして画像を出力させたのが大きな話題を呼びました。ユーザーは様々な描写内容をテキストで入力するとAIがその内容に合わせてなるべく忠実な画像を出力をします。Stable Diffusionがこれに隋髄しますが、こちらはオープンソースということもあり費用を払わずいくらでも画像を作成できるということが強みを発揮しました。Midjourneyに比べるとStable Diffusionの作成する画像にはややたどたどしい部分がありますが、的確なテキスト入力と細かい調整を繰り返せば目を奪われるような美しい絵を数分で作成することが可能だったのです。人間が同じ絵を描こうとすれば数日かかります。 ネット上のクリエーターのみならず多くの人々を驚かせたのがMidjourney作成イラストがアメリカ合衆国コロラド州のステートフェアーで佳作として賞を受賞した事件です。投稿者は色々な微調整や細かい仕上げ処理が施されたイラストであればAI作画であってもそれは芸術的な試みとして認知されるべきだと訴えましたが、異論も続出します。反論としてはその絵は作画AIが活用するアルゴリズムが可能としたものであり、AIが活用した膨大な量の参考資料がなければ設立しないというのがあります。 コロラド州でAIによって作成された絵が人間が作った絵よりも高い評価を得て賞を獲得したことでAIが人間のクリエーターを置き換えること可能性がより現実味を帯びます。しかしこの危機感は主に西欧の芸術絵画を描く画家やコンセプトアートを生み出すクリエーターや写実的なイラストに携わる方々に限定されていました。この時点で多くの日本のクリエーターによって作画AIを背景の作成や色彩確認・調整の道具としては便利だがキャラクター自体についてはまだまだ人間の活躍する領域にとどまっているように思えました。 ■NovelAIというバケモノ しかしこの見込みは2022年10月初頭にNovelAIがあっけなく打ち壊してしまいました。日本のアニメ・マンガ画風でキャラクターを説得力ある形で描けるようになったのです。NovelAIは取り扱いが楽で高品質のアニメ・マンガ画風のキャラクターを何枚も即座に作成することできます。NovelAIはStable Diffusionをカスタム化したAIで予め日本アニメ・マンガキャラを作成することを想定し、Danbooruという主に世界中のユーザーによって違法アップロードされた日本アニメ・マンガ画像で構成されたまとめサイトの膨大な画像データを参考にするよう設計されていました。Danbooruはかなり前から稼働している画像アーカイブでユーザーによる非常にきめ細かいタグ付け(黒髪、褐色、巨乳、太い眉毛、八重歯、メガネ、セーラー服、夜景、夏、プールなど)が可能となっているので画像のデータセットとしては理想的です。 NovelAIを活用すればユーザーは簡単な指示をいくつか繰り出すだけで何十枚ものイラストを瞬く間に作成することができ、それらの画像の所有権はユーザーものとされていました。出力された画像はすべて出来良いと言えませんが、中には人の手で書いたイラストと並べてもそん色のないのも生み出せます。 上手く調整すればNovelAIは既存の絵描きさんの絵柄を再現することができます。指定された絵描きの絵柄で特定のキャラを任意の状況で描くことが可能なのです。出力結果には良し悪しはありますが、時には流し見ではAIとはとても思えないほど良い物を作成できます。 ■作画AIの長所 まず最初にここで言う作画AIとは学び、考え、創作する力があるコンピューターの話をしているわけではありません。現在においてAIとはプログラマによって生み出された複雑なアルゴリズムを用いた機械学習システムであり、そのシステムはユーザーによって操作されます。この他にもこのような処理を模したソフトウェアの機能もAIと俗称されます。機械学習の内容は人によって作り出され、そのデータ処理は人が指定したパラメーターを元に進められます。SF作品に登場するAIとは異なり、今現在のAIには意識はなく高等生物には必要不可欠とされている無制限連想学習(unlimited associative learning)という生物が感じ取った刺激を記憶・整理する手法を備えていません。 作画AIが人間を置き換えることは不可能です。人が違う人を置き換えることができない以上、AIがそれを成し遂げるとは到底思えません。(少なくとも人類が人間を完全に複製する手段を確立するまでは無理でしょうし、そもそも人間を構成する体と心についての理解はかなり危ういところが多いのが現状です。) 作画AIは参考資料に既存の作品に大きく依存しており、ユーザーが的確なイメージを思い描けないと洗練された出力を確立することは難しいです。題材によって共通性の高いパターンを把握し、絵をそれら要素へと解体し再構築します。この作業が実に滑らかに執り行われているのには驚かされますが、コンピューターは新しいアイディアを生み出すことはできません。 しかし「無限の猿定理」(多くのサルにタイプライターを与えて無限の時間を与えランダムにキーを叩けばやがて文学作品が生まれる可能性がある)は作画AIにおいて有効であると言えるでしょう。ユーザーが膨大な数の絵を出力させることが容易であり、なおかつ人間は混沌や自然の中でパターンや記号・意味・特徴を見出しそれに意味を与える力(例としては変哲のない木目の中で人の顔を見出す傾向)を授かっているのでやがて作画AIによって生み出された作品が本当に革新的な芸術作品を生み出すきっかけになる可能性は十分あるでしょう。 機械が生み出した「新しいコンテンツ」を人が解析し、楽しむこと自体はそれほど新しい現象ではありません。人は何十年も前からコンピューターを相手にゲームを楽しんできましたし、ランダム要素を組み込みプレイヤーが楽しめるマップ作りをさせることもできます。これら自動作成マップのプログラムの精度が向上した結果、人が作ったのかコンピューターが作ったのかわかりにくいレベルまで完成度が高いこともあります。2010年代中盤から機械翻訳の質はかなり向上しただけではなくて、同年代末からユーザー対話式物語を紡ぐ能力もかなり躍進しています。 しかし作画AIとこれまでのAIと大きく違うことは出力しているのが画像だということです。この場合、コンピューターは読み解くのが必要な文章を作成しているのではなく、即座に判別することができる画像です。人は文章を読み、その内容を解きほぐす必要があります。どの出力例がより良いのかを確認するために膨大な量の文章を読むのはほとんどの人にとって苦痛です。しかし作画AIの出力であれば即座に気に入るか否かを判別できます。正確性は低くとも人はおおよそ文章を読むのより絵を見て判断する速度が速いです。ユーザーはそのコンピューターが生んだものが適切なのかどうかを判断する時間が短くて済むということでこれまで大量に生み出されてきたAI出力データと根本的に違うのです。 ■作画AIに対するクリエーターの反応 作画AIが登場してまだ時間が短いのでこれらが人間の想像力やクリエーターのコミュニティーに対して与える影響について予想することはまだ難しいでしょう。 今後しばらくはAI作画を廻って盗作行為である否か、創作性を発揮しているか、想像とは何を意味するのか、クリエーターへの配慮や倫理的待遇などが活発に議論されるでしょう。日本のクリエーターの中では自らの作品を学習対象となるデータ集積に一部ならないように求めています。しかし米国においては現段階では著作権法の中のフェアユース事項のもとで機械学習は合法とされており、日本においては2018年の著作権法の改正で既存の著作物を機械学習対象として容認するのが加えられています。 たくさんのクリエーターが画像まとめサイトして機能しているDanbooruから自らの作品が取り除かれることを要求されていますが、既にこのサイトは丸々アーカイブされており、まるまるダウンロードすることが可能となっています。さらにプログラマーによって画像内容を区分するためにタグ作業を自動化したプログラムも作成されています。例えオンライン上のDanbooruが空っぽになったとしても画像集積サイトは他にもたくさんあり、作画AIにとって貴重なデータ集の提供先が複数あるのが現状なので、データの集積を防ぐのは現時点では非現実的だと言わざるを得ないでしょう。 たくさんの方々の創意工夫が結実して生まれた過去のたくさんの作品に依存しており、多くの努力の成果にただ乗りしているとして作画AIに眉をひそめる人は多いです。品がないかもしれませんが、ほぼ確実に合法です。もしコンピューターが原典とは明らかに違う作品を翻案することができたのであれば、それは人が行うことと同じことです。論理的に考えても人がやって合法なことをコンピューターに委任した場合は合法であるべきです。問題は手段ではなく、簡易性と規模、そして正確性です。 ■作画AIの合法性と倫理性について 既にふれましたが当人の関与ないままでその人の絵柄をまねて絵を生み出すことができます。原則論として著作権は「作風」を保護対象としていません。もし私がサルバトーレ・ダリの絵柄で月面着陸を描いたとしてもその作品は私のモノと認められ、著作権の保護対象となるでしょう。他人の創作物を真似るのは才能を発達させる大事な過程であり、人類が創作行為を始めた時から行われたことです。我々は他人の作品を真似り、再現し、学ぶことでやがて自らの作風を確立します。クリエーターの世界は人が自らの創作を切磋琢磨させ、やがて独立して自らの作品を生み出せる作り手になることを想定しています。少なくともリミックスや模倣、再現においてその個人の創意工夫がどこかで織り交ぜられると仮定します。人は他人が作ったものをそのまま全く同じに作ることはできませんが、コンピューターはできます。 またコンピューターが他人の絵柄で大量の作品を生み出せるというのは色々な問題を発生させる可能性が決して小さくありません。もし作画AIが私の絵柄をそっくりそのまま再現し、受け手側も作ったのが本人なのかコンピューターなのかまったく判別できないほど精密であり、なおかつその私の絵柄で描かれた真贋性が判別できない作品が大量に生み出され、私本人の作品が受け手側の目に届かないほど脇に追いやられた場合、私には不正競争で訴え出る権利はあるのでしょうか?もしくは私の絵柄そっくりそのままで私の政治信条とは異なる政治的発言を繰り返した場合はどうなるでしょううか?フェアユースは創作行為や表現の機会においてある程度の平等性を想定していますが、AI作画はこの想定を容易に打ち壊すかもしれません。 芸術の世界において贋作の歴史はかなりさかのぼりますが、作画AIが作家の生活を脅かしかねない側面についてはディープフェイクや名誉棄損の枠組みで考える必要があるかもしれません。現時点で今後どうなるかは予想しづらいですが、しかしこれまで成り立っていた創作行為の前提条件がぐらついているのは否めない事実だと思います。 例えば創作途中の画像をコピペしてそのまま本人が絵を完成させる前に他人が絵を完成させることが大変容易になってしまいました。他人の創作物を拝借し、その貢献度合いを隠ぺいすることも可能です。クリエーターはその作風が常に進化するもので、長い年月をかけて大きく変化することは珍しくありません。そこでAIに古い絵柄とキャラを学習させ、20年前の作風そっくりで新作を生むことが可能です。例え何らかの手段を用いて収益化を防いだとしても、本人からすれば古い絵柄の「新しい」作品がコミュニティーの中で溢れるのを喜ばしいとは思わないかもしれません。 AI作成画像はこれまで遭遇したことないような倫理的な課題を提示しており、そのために作画AIによって生み出された作品を忌避する流れも一部のコミュニティーで発生しています。 キャラクターや作品の版権元がネット上で投稿されたファンアートを広報活動の一環として活用することは珍しくなく、これを円滑に行うためにTwitterで活用できるハッシュタグを準備し、ファンがそのハッシュタグをつけて投稿した際には版権元が活用することを容認したとするようなシステムを運用している例もあります。もちろんこれは投稿者が不正を行っていないことを前提としている性善説で成り立っているシステムです。作画AIによって生み出されたイラストに創作性があるのか否かについてまだ判断がしにくいのが理由であるためか、複数のVtuberはAI作成画像を投稿する際には作画AIを活用したことを明記するかまたは公式ハッシュタグをつけて投稿するのを遠慮するように要望し始めています。 また複数の画像掲載プラットフォームやコミッション(有償画像発注)仲介サービスや市場において作画AIの活用を制限したり、禁止するケースも始まっています。規制の理由は作画AIの出力した画像の創作的所有権にめぐる議論がまだ継続しているだけに留まらず、作画AIを活用すれば短期間で膨大な数の作品を生み出し、人間の創作ペースを簡単に上回ることができるというところがポイントでしょう。作画AIの生産性とこれが示唆する経済的な影響は広範囲にわたると思いますが、これについてはまた後程触れます。 ■作画AIは単なる道具か?道具であり道具ではない側面 しかしこれ以上進める前に作画AIが生み出した絵とこれまで絵を見分けるのが意外と難しい点について言及させてください。ユーザーが入力する文章に支持されて作画AIが生み出す画像は特定のアルゴリズムに依存していますから、AIが出力例を解析してAI作成において特徴的な傾向が含まれているどうかを理論上では確認することができます。これはある程度までは有効性でしょうが、作画AIが生み出して絵に人が手を加えることでその本性を誤魔化すことは難しくありません。 さらに複数のクリエーターが作画AIを活用して自らの作品の品質向上の手段として関心を露にさせています。例えばマンガは主に画面手前のキャラクターを中心に展開しますが、背景に人物がいるのが重要な場合があります。マンガ家がアシスタントを雇う余裕があれば背景に適当な人物を描いてもらうことができます。マンガの物語において根幹をなしているのがコマ割りとストーリーの流れを作る作業ですが、背景や様々な画像要素の処理は物語作りから必要不可欠ではないかもしれませんが必要な作業です。マンガはかなり単調な作業が多いです。もしマンガ家がアシスタントを雇う余裕がなく、時間的な余裕もないのであれば著作権フリーの画像集や素材集を活用するかもしれません。それではこの作業をAI任せにしても物語作りに大きな支障をきたすでしょうか。現実には多くの芸術絵画は卓越した画家の指導の下で多くの弟子と一緒に協力して生み出されてきました。そのよう生み出されたから言ってその作品の価値は下がるでしょうか。 … Continue reading

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『マンガ英訳の作法』(C100暫定版)

2022年8月に記念すべき第100回コミックマーケットが開催されました。に際して翻訳についての本を発行しました。恐れながら兼光は商業翻訳家として30年以上活動続けてきました。主にアニメとマンガの和英翻訳が多かったのですが、マンガについて簡潔ながら一冊の小冊子に基礎的な方法論と課題についてまとめました。これから翻訳したい人も自分の作品を他人に翻訳を依頼したい人にも少しでも役立てることができれば幸いです。またこの本はマンガ英訳に焦点を当てていますが、一般論としては動画やアニメ翻訳にも当てはまるところが多いと思います。小説・ゲームについてはより参考になるかもしれません。 書籍版と電子書籍版の両方をとらのあな様にて委託販売しております。書籍版:https://ecs.toranoana.jp/tora/ec/item/040031006010電子書籍版:https://ecs.toranoana.jp/tora_d/digi/item/042000040772 商業作品だけではなく同人誌にとっても英訳は武器になりえると思っています。同人誌は自らの創作性を共有する素晴らしい手段です。『マンガ英訳の作法』でも触れましたが、海外に感性に歩み寄るのも良いけど自分の感性に歩み寄りやすい翻訳も可能だと思います。ただ闇雲な直訳の追及は逆効果になることもあります。今回いくつかの手法を提示したのでご興味あったら見てください。 以前にも言及したことがあると思いますがニッチなジャンルでも英語併記にする事で市場が一気に広がります。個々の国では小さな市場でも、組み合わせるバカにできません。英語が公用語ではない国でも英語はがんばれば読めるという人は非常に多い。そんな方々向けにあなたの趣味の世界を共有しましょう。そんな試みに少しでも貢献できればうれしいです。 皆さんからご意見・ご要望あれば続刊を考えてみたいです。今回の新刊で高評価を得られれば友人知人のマンガをサンプルに新規で翻訳して色々な翻訳例を並べるのも考えたいですね。もちろんやるとすればそんな試みに前向きなマンガ家友人知人と一緒にやりたいのですが。 なお、いつできるか現段階では検討つかないのですがいずれ大幅に増補改訂版をやるにしても今回の冊子はマンガ翻訳の骨子を要約し簡潔にまとめた一冊としての役割を果たせるのではないかと思いたいです。おこがましいかもしれませんが、最初は分厚い教科書よりは入門書というか全体像を掴めるのもそれはそれで役割があるのではないでしょうか。

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第8装甲連隊のエアコミケ2参加情報

どうもです。兼光です。WordPressの編集形式が一気に変わったって使い方が良くわからないです。非常に簡便な告知ですが、当陸戦ウィッチメインのサークル、第8装甲連隊はエアコミケ2に参加しておりますので情報リンクを掲載させてください。 pixivでもっとも色々な情報を掲載しております。https://www.pixiv.net/artworks/86577781 新刊は二種類用意できました。これで2020年に新刊ゼロという事態は避けることが出来たのがよかったです。 2021年でも色々がんばりたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。みなさん、よいお年をお迎えください!

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経済学者に缶切りを

「缶切りがあると仮定しよう」は経済学が他の学問と違う事を示唆する有名な一文です。「無人島に漂着した物理学者と化学者はそれぞれどうやって缶詰を開けるか色々と議論している一方、居合せた経済学者は『缶切りがあると仮定しよう』と言い出した」 この小話を読んで今の日本のコロナ対策を連想する人も多いでしょう。 この小話は非常に有名でいかに経済学が机上の空論であるかを示唆する、いわばその学問全体を揶揄する表現と思われがちです。しかし元々ジョークは英国経済学界から出てきたもので、経済学の論理や研究方針を上手く言い表すものであり、同時に経済学の有効性をはっきりと表していると思います。 要は命題の考え方が大事という事です。無人島で物理学者と化学者は缶詰をどう開けるかを考える一方、実際に缶詰を食べれるようになった時に発生する倫理的課題をまったく触れていません。弱肉強食の論理からすると缶詰を開けた人間勝ちとなりかねません。しかしそれでは合理的社会を維持できません。 経済学とは限られた資産をどのようにもっとも有効的に使うかを考える学問です。我々の欲望は無限ですが、それを叶える資源(時間・資金・人・資材)は有限です。どのようにもっとも有効活用かを考えるのが経済学の大きな命題です。 「缶切りがあると仮定しよう」はブラックジョークであると当時に経済学の視点は常にもっと多極的であり大局を見据えていることを示唆しているともいえます。 これは今の日本のコロナ対策にも通じます。 日本経済の回復をするにはどうすればいいのか?という議論で考える時、色々な短期・中期・長期のスパン(検証対象期間)で考えるのは大事ですが、現在経済政策では中期的である「財政赤字と経済成長」を関連付けて考える傾向が非常に強いです。中期も大事ですが、短期が無くては中期もありません。 現代経済学の先進的な存在あり、世界経済の発展に大きく貢献したケインズがはっきりと言っています。 「失業などの経済不均衡は市場メカニズムによってやがては自律的に是正されるかもしれない。長期長期っていっても長期にはわれわれみんな死んでしまうんだぞ」(超意訳) (このあたり、御興味あったらこちらなどご覧下さい。 「経済モデルは、その実証性を検証するのに長い月日を要する。ケインズの言葉『長期的には我々はみな死んでいる』は、長期を無視するのではなくて、より優れた経済分析をすべしとの懇願でもある」) 政府の財政出動(政府が直接資金援助する助成金など)は経済回復がスタートする段階から始める部分を重要視する理由の一つは「(経済回復は始まると同時に)税収が増えるのをどう応援するか」という思考に傾倒し過ぎている現われといえるのではないでしょうか。 大よそ財政出動である108兆円の緊急経済対策を繰り出すならばその一部を回復後に振り分けず、100%今の日本に資金を提供した方が良いと思います。井上さんの指摘が大変正しいと思います。 「缶切りがあると仮定しよう」は経済学者の観点は命題によって変化するのを表します。「日本経済をどうやって回復させようか」ではなく「どうやったら維持できるのか」を我々の代表である政治家に強く要望しないと経済政策の命題は変わりません。 これは経済学者ではなくとも皆さんの間で広くご共有・ご理解いただけることだと思います。

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誰のための表現の自由か

[この文章は2018年11月にツィッターで連続投稿したを内容を補足・編集・改訂したものです] 表現への許容の度合いは様々であり、表現者を取り巻く基準に「世界標準」というものはありません。また、同じ国の中の中でも地域やジャンルによっては様々な基準があります。市民の自治による監督権限が分散している国では自治体によって基準が違いますし、映画やTV、ゲームなどを巡って異なる基準を制定している国家は珍しくありません。また法令で規定されている範囲は飽くまでも法令の設けた基準であり、できるだけ明確に・できるだけ公平に・できるだけ表現の自由と個人の尊厳が守られるように設計するのが一つの理想でしょう。 表現の自由を守る理由は色々あります。政府の腐敗や暴走を止めるため、文化・芸術・科学の発展を阻害しないため、報復を恐れない議論を可能にし、表現の平等性を保全しつつ発言者の人権を損なわないため。私個人の意見ですが、守られるべき自由は人から疎まれるような「人気のない」「嫌われた」「小さい声」を重要視するのであって、法の保護なくとも持ち上げられるような人気のある、格式高いを優先する必要はないと思います。表現の自由は万人にとって常に居心地のよい景観作りをするためではないのです。 個人が安心に感じられる環境作りは重要ですが、特定個人の主観的安心感を基準にして他人の権利を制限することは危険極まりないと思います。思い出して欲しいのですが、これまでに「社会的、道徳的、公序良俗の違反である」を理由に色々な個人の尊厳が蔑ろにされてきました。このような権威の乱用は世界各国で行われており、今なおも幾度となく進行している例はあまりにも数が多いです。 私は社会や個人を尊重する公共性の構築と表現の自由の共存は可能だと考えています。歴史的な町並みに建てられる物件は外装保守的でも、内装はいくらでもはっちゃけても良いのではないでしょうか。これを情報共有の場において可能にしてくれるのがゾーニングであり、メディア・リテラシーだと思います。 気に入らない内容に直面したとき、私たちは表紙を閉じる・チャンネルを変える・視線を逸らすことができることを忘れてはいけません。目に入るもの全てを気にするのはやや息苦しいと思います。「気にしない」というスキルは情報過多社会に生きる上では必要不可欠ではないでしょうか。 よく「子供がみたらどうなんだ」や「フィクションでも心が傷つく人がいる」という主張を論拠にした発言があります。一見、これは弱者や被害者への配慮を重要視すべき、という誠実で慈しみに溢れる素晴らしい意見に聞こえますが、冷静に分析すると論理的に破綻している側面があり、そのまま看過してしまえばパンドラの箱をあけるのに相当するのではないかと不安に感じます。 残念ながら私たちが生きる現実社会は見守られていない子供にとって危険な側面があります。人が人としての自由意志に導かれて行動する際、誤って怪我をしたり亡くなることがあります。これらの危険要素を徹底して取り払うには個人の自由を大きく制限し、市民を広く細かく管理するのを良しとする社会とそれを可能にする技術が必要でしょう。 私たちの命の源である太陽も数秒間直視するだけで私たちの視力を奪います。なくてはならない水もタライに張ることで溺死を誘発できるのです。自然に生える樹木も登れば高さによっては落下による怪我か死に至る危険極まりない構造物といえます。 しかしだれも太陽を無くせ、水を制限しろ、樹木を全て伐採せよとは言いません。言うべきでもないでしょう。 危険な世界の中をうまく立ち回る知恵と知識、分別と成熟性を備わるまで私たちは子供を適切に見守り、成熟した人間に育てるのが最善だと思います。 成熟した人々同士のやり取りを前提とした社会生活を、分別つかぬ子供の時折無軌道な行動力を意識して組み変えるべきはないと思います。三輪車に乗る子供と大型トラックが同じ道を走るような交通法規の構築やインフラの整備は無茶なのです。 「フィクションでも心が傷つく人がいる」ついては大変申し訳ないのですが、配慮には限界あります。私はアレルギー持ちですが、「私のアレルギーを論拠に他人の行動や食事を常に制限すべき」でしょうか?私は特定の食べ物の食べると命の危険がありますが、だからと言ってそれを他人に押し付けません。自ら摂取するモノについて自分で気をつけるしかありません。 私にとってアレルゲンであるものも、他人にとってはおいしい食材であり、豊かな食生活の一部なのです。 人によって何が害をなすのか予測し難い部分もあります。それらが市場を媒介して流通するのに不満を感じることがあるかもしれませんが、市場とは万人それぞれの需要・嗜好を満足させるために存在するものであり特定個人のための流通ではないと思います。スーパーにアレルゲンがあってもスーパーを潰せとは誰も言いません。 創作物が口に合わないのであればそれは避けるのがよいでしょう。しかしその創作物が存在すること事態が許せないから無くせというのは危険な論理です。あなたが大事にしているモノを違う人が全否定するのを良しとしてしまいます。色々な作品や並列して存在できることは素晴らしいと私は感じます。成人向けゾーニングや多種多様なジャンルが介在する日本こそ人々の多様性に準じた多種多様な趣味趣向を満足させられる豊かな市場といえるのではないでしょうか。 また創作物は概念上の存在であり、読解力がないとその情報の伝達は設立しません。どのような人畜無害な創作物に対しても嫌悪感を起こすことは可能です。手の影を見て蜘蛛が見える人もいることを想定してモノづくりをするべきでしょうか? 対面で物語を紡ぐならいざ知らず、全能の神でもなければ手に取るかもしれない読み手全員を意識して物語作りをする出来ないと思います。何が誰の琴線に触れるのか、何が誰かの逆鱗に触るのか、すべからく予知することは無理です。なので結局は「摂取するモノを気をつけるしかない」としか言いようありません。 もしろん、作品に対して不満を露にすることは制限すべきではありません。しかし自らが不快感を感じたのだから他人もその不快感を共有するのは当然であるというのは行過ぎた配慮の強要に繋がりかねません。それは特定の作品を持ち上げる人にも当て嵌まることです。あなたが良いと感じているのを他人に押し付けるのは行き過ぎですね。 私たち一人一人の基準と私たちを取り巻く基準は世界共通でもなく、歴史的にも普遍ではありません。人は変わります、社会は変わります。表現規制の大義名分は崇高であることもあれば、恐ろしく下らないこともあります。規制や基準が裸の王様であるとあなたが指摘すると叩く人が出てくるかもしれません。そこまでは予測可能の範疇でしょう。 ですが規制や基準に対して異議を唱えれば、その主張を応援する人も確実にいます。表現者の場合、それは読者と視聴者でしょう。しかし中には規制を求める相手が憎いという動機が先走って、過激な発言や行動を繰り出す人も出てくることがあります。相手が過激だから自分も!は不毛ではないでしょうか。 あなたはたくさんの方々に支えられて生きているのです。でもあなたの理念や思考自体はあなただけのものです。他人への配慮や意識することは社会の中で生きる上で大事ですが、自己の確立を放棄しないで下さい。規制を巡る論拠は絶対的正義とか世界共通の倫理とかが持ち出されやすいですが、あなたが考え、感じるのと同じように他人も思考し、色々な受け留めをしているのです。 表現規制や表現の基準は自己決定権や個人の権利、尊厳に直結しますが、それがあなたの全てではありません。だれでも安心して安全な自由な表現を追求できる市場は絶え間ない助け合いと連携の上で成立っています。それを意識し、出来る範囲でその環境整備に貢献しましょう。でもその間に自分を見失ったら意味がありませんから気をつけてくださいね。

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萌え絵の違法性

日本においてアニメ的な配色と大きな瞳や可愛らしいとされる記号の組み合わせで構成された、いわゆる「萌え絵」が社会的に広まったのは21世紀に入ってからでしょうか。それ以前からもマンガやアニメは広く市民権を得ていましたが、アニメ・マンガ文化のサブカルチャーともいえるかもしれない美少女・BL系分派がサザエさんやドラえもんなどの作品群と肩を並べる世界に近づいたといえるのかもしれません。 さて日本国内から「日本の萌え絵は性的な要素が強く、直接エロ描写がなくても海外では児童ポルノとして捉えれるからよろしくない」や「萌え絵があまりにも広く社会的に浸透している。海外から嫌悪感どころか場合によっては違法なコンテンツなのだから身の丈をわきまえてもっと大人しくあるべきだ」という主張が2018年にちょくちょく見かけられるようになった気がします。 キズナアイをはじめとするVtuber(バーチャルYouTuber)が社会現象として話題になりはじめてからこの話題は加速しているように思えて仕方ありません。 しかしながら日本のアニメ・マンガにおいて大きな地位を占める「萌え系」が海外では社会的に不謹慎とされる主張や表現の自由の保護に入らないという主張には同意できません。制限速度を超える速度をだせる車の話を持ち出して「車は違法」というような主張に思えます。そもそも海外での規制基準は非常に多種多様なので一括りで論じることは事実誤認や歪曲へとつながりやすいと思います。 まず欧米の基準を持ち出す時には「欧米」の概念を考える必要があります。 アメリカは表現の自由を最大限保証する国として有名で、アメリカでは許容されてもカナダやドイツでは違法とされるような表現物が多々あります。 欧米諸国はは民主主義・市民生活の保全・個人の権利の保護という理念で共通点が多いと言えるでしょう。しかし、具体的にどのようにその理念を守るかについてはさまざまな取り組みを模索し続けています。国によっては驚くほど寛容ですぐ隣の国では極めてきびしかったりします。 つまり「欧米の基準」「先進国の基準」を持ち出すことは曖昧極まりないと思います。 このような欧米各国の異なる取り組み方を意識するのに加え、長い歴史的観点と多様な視点を垣間見れる鳥瞰図が大事である私は考えています。さらにはどの国にも複数の異なる基準が並列し、共存していることを忘れていけません。 さて、ここでアメリカの基準に焦点に当てたいと思います。世界で非常に影響力のある米国の表現規制や視点ですが、次の四つに大別できると思います: (1)連邦法や州法の条文基準と判例 (2)FBやTwitter等ユーザーコンテンツ共有プラットフォーム利用利用規定の基準 (3)特定のコミュニティで受け入れられた基準 (4)個人・団体が提唱する基準 ―これら全部別々です ■(1)連邦法や州法の条文基準と判例 まず(1)ですが、米国は日本と猥褻の取り扱いが大きく異なります。日本では赤裸々な性描写において陰茎と女性器に対して程度の修正を加えれば、題材やその描写の傾向など、作品の内容についてはほぼ一斉に不問とされ、当局から追求されません。これは日本国刑法175条にそのように定義されてからではなくて、猥褻図画に該当嫌疑としての当局の運用基準です。不平不満が多い基準とは思いますが、ある程度までわかりやすいのは否めません。 ときどき書き換えられるのが本当に困りますが。 しかしながら、当局が問題視して警告・逮捕・立件したとしても裁判所で結審されなければ猥褻とは認定されません。日本は米国に比べると警察と検察当局による立件基準はかなり保守的で、法廷で当局の立件が無罪と結審となるケースは少ないです。(ただ、ここ近年増えている印象はあります。) 一方、米国では猥褻は陪審員の結審によって認定されます。日本のように判事ではなく地方に根ざした陪審員が自らの価値観に導かれて違法性を考えます。市民の基準が地方地方によって大きくことなるのが特徴的です。このため、AVの撮影がロスに集中しているなどの現象が発生します。 確かに米国は想像上の未成年の性描写の違法化を1990年代から模索しています。 しかし2002年に米国最高裁はヴァーチャル児童ポルノを違法化を試みた1996年のChild Pornography Prevention Act(児童ポルノ防止法)に対して違憲と言う判断を下しました。しかも9人いる判事が6対3という割合で違憲と認定した事は当時随分話題になりました。この時に最高裁は色々な観点から実在する未成年者を含まない児童ポルノを全面禁止するのは過剰であると指摘しています。 ・同法律は表現の自由が保障されている猥褻ではない表現も違法化している。 ・児童虐待を伴う実在児童ポルノは児童の保護と福祉を踏まえ、表現の自由が守るべき範囲には含まれない。だが、児童虐待を伴わない偶像児童ポルノに同じような「表現の自由を上回る公共の福祉性を優先する必要」は当てはまらない。 ・偶像児童ポルノと実在児童を巻き込む性的虐待犯罪行為の間に明確で直接的因果関係が認められない。 ・実在児童ポルノが違法である最大の理由はその内容ではなく、その製造過程にある。 ・犯罪に使われるかもしれないという可能性だけで、それ自体が無害であるモノ・合法的に制作されたモノを違法化するのは過剰である。 ・違法行為を促がしかねないという理由だけで表現を規制することは過剰である。市民の私的思考を望ましい方向に向けるために法規制するのは不当である。 ・偶像児童ポルノが実在児童ポルノの制作を促がすという論拠は脆弱であり、実際には取扱に非常に厳しい処罰規定が伴う実在児童ポルノを偶像児童ポルノが市場から駆逐する可能性がある。 この2002年の最高裁の判決に不満を持つ人は数多く居ました。半年もしないうちに新たな法律が連邦議会で可決されて、2003年にブッシュ大統領の署名をもってProsecutorial Remedies and Other Tools to end the … Continue reading

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第8装甲連隊C94夏コミ情報と新刊依託販売のお知らせ

どうもです。兼光でございます。夏コミは思った以上に暑くならなくてよかったですね。7月の酷暑で色々心配になっていましたが、比較的落ち着いた気温で何よりでした。 今更ですが、夏コミに無事当選して新刊の発行に漕ぎ着けました。新刊は二つで片方はかなり濃厚な資料本の『ネウロイ大戦のインド陸軍』で、もう片方の『油照』はミニポスター集のようなA4サイズのミニポスター集でした。 詳細についてはpixivをご参照頂けると何よりです。第8装甲連隊夏コミC94のラインアップのお知らせ 『ネウロイ大戦におけるインド陸軍』はとらのあな様から委託販売をお願いしていますから、もしご興味ありましたらどうか宜しくお願い致します!    

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