2084

It is 2084. Winston Smith Jr. was a 34 year old white man living in East London. While an aspiring art living in the Ends, Winston was frustrated in furthering his career as a creator. He was forced to do increasingly menial jobs while his artistic aspirations seemed out of reach as even simple entry level positions as an artist were robbed by AI.

But somehow he kept going, thinking he might breakthrough one day like one of the Vtubers featured on the telescreen. His art was a cry of hope that he posts for free on HateTwitter.

His posts were raw, edgy but genuine. He was scorned by many but what bother the most was how his art meant nothing to most.

But by chance one of his posts went viral. It ran contrary to what the algorithm deemed worthy, but by random coincidence, the hash value made it past the filters.

Winston went to asleep that night elated. His post was getting RTs and likes above 100 for the first time in his life. He was content and happy.

That happiness was destroyed when he discovered the next morning that is art was commandeered by a famous Vtuber and earns millions of RT and likes.

Winston was devastated, as this Vtuber that stole his creative effort was someone he adored for many many years.

Winston knew he had no chance against the Vtuber. Copyrights only mattered if you were rich and famous. And on the social scale of things, he was dirt while the Vtuber were modern day Gods on Earth. They could do no wrong.

In the past, a Vtuber might make a mistake but then disappear. There was no transgression. There was no mistake. There were no bad actors.

And yet, Winston’s thirst for vengeance was too strong. He could not let it go. Since he had been a long time fan, he knew various quirks of the Vtuber in question. He uses his knowledge of old unarchived streams and superchatted with innocent sounding questions to geolocate where the Vtuber lived.

He had to know who this person was. He had find out what compelled that Vtuber to steal his idea.

After carefully and meticulously connecting all the dots, he arrived at the location where the Vtuber was believed to live. His qualifications as a cleaner and delivery boy and repairman worked to his benefit. He managed somehow to get inside the gated community.

But then he discovered that the Vtuber was actually just a relay inside a warehouse. One of many many relays. An army of routers were feeding the nets with streams of content, all generated by a vast array of computers.

Winston was too dumbstruck and didn’t realize he had been seen by security. He didn’t put up a fight when the guards managed catch him. Placed in an interrogation room, the “mods” wanted to know how much Winston knew, but better yet, they offered him a job as part of the team.

“Join us,” they whispered in his ear, “or you life will remain evermore empty and purposeless.” Winston seriously pondered the offer. But he had enough.

Winston’s gazed at his interrogators with pity in his eyes.

“And your lives aren’t? You live in a house of cards, ready to be blown away in an instant.”

“Be that as is may,” answered the man in a impeccable dark suit, “that house of cards is how we got to where we are. Our world wouldn’t function without it.”

“I guess we’ll find out,” Winston closed his eyes.

At that moment alarm bells started going off. The AI entertainment farm was caught in a ransomware attack. A cascading series of critical system errors was shutting down everything.

“Tell us the password!!” The men screamed.

Winston’s sheepish smile infuriated the interrogators.

“It’s not a password. It’s my memories. I tied the ransomware permission string to my memories. You can take my sanity. You can steal my ideas. But you can’t steal my memories.”

“We’ll see about that.”

After several stressful weeks, the system was restored. But viewers noticed that a  man’s memories would surface from time to time. It would never last a long time, and the mods always had a good explanation.

But many people even enjoyed those quirks. It seemed to make the content more authentic, more genuine.

Those were Winston’s memories revealing itself in a slip of a tongue of a Vtuber, or a doodle by a streamer, or a flier on the background of an anime.

Winston was now hardwired into the system. He was no better than a brain in a jar, tethered to the system that relied on his memories to remain functional.

Winston had no thoughts, no desires, no sadness, no insecurities. He lived in his memories and his memories made all entertainment possible. He knew his memories would eventually inspire others to disrupt the system. And even if that didn’t happen, he was okay with that.

His memories became a focal point of all popular entertainment. And that was good enough for him.

The End.

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2002年米国最高裁「アシュクロフト対表現の自由連合」裁判判決文和訳

もうすでに20年前の判決文です。しかしながらこれからも色々参考になるところがが多いと思います。

2002年のアシュクロフト対表現の自由連合裁判は色々な影響を残しましたが、実在しない未成年に対して実在する未成年と同じ保護を与えるのは表現の自由を歪めるという判断は画期的であり、なおかつ内心の自由なる古い権利を再確認する重要な判決だったと今なお思っています。

この翻訳は弁護士の山口貴士、兼光ダニエル真、enart(敬称略順不同)による共同作業でした。

原文はこちらで確認できます

裁判については「アシュクロフト対表現の自由連合」で検索してください。

米合衆国連邦最高裁判所
No.00 -795
ジョン・D・アッシュクロフト司法長官およびその他の申立て人 対 表現の自由連合およびその外の者

2002年4月16日

法廷意見書

ケネディ判事は判決理由を申し渡した。

 我々はこの訴訟において、1996年の児童ポルノ防止法(CPPA、合衆国法典タイトル18の2251条以下参照)が表現の自由を奪うものであるかを検討する。CPPAは、未成年者を描写しているように見えるが実在の児童(child)を使用せずに製作された性的に露骨な肖像(image)にまで、連邦法で禁止される児童ポルノの範囲を拡大している。法令は、特定の条件のもとにおいて、これら、未成年者のように見える成人を使用したり、コンピュータ画像処理技術(computer imaging)を使用したりして作られた肖像についても、その所持や頒布を禁じている。議会によれば、新しい技術は、実在しない児童の写実的(realistic)な肖像を作ることを可能としている。議会の答申、合衆国法典タイトル18の2251条に続く覚書参照。

 Ferber判決(New York対 Ferber、458 U.S. 747頁 、1982年)は、児童を児童ポルノ製作過程での搾取から守るという国家の利益(公共の福祉)のため、他の性的に露骨な表現と児童ポルノとを区別したものであるが、実在の児童を描いていない児童ポルノを禁止することによって、CPPAはFerber判決が児童ポルノの規制を合憲とした判断の射程範囲を逸脱するものである。同上758頁参照。

 一般論として、ポルノは猥褻な場合に限って禁止することが許されるが、Ferber判決は、未成年者が登場するポルノはその肖像についてMiller判決(Miller 対 California、413 U.S. 15頁、1973年)で定義される猥褻の基準への抵触を問題とすることなく、法律で禁止することを肯定している。Ferberは次のように認めている。「Millerの基準は、猥褻であるとして禁止されうるもののあらゆる一般的定義と同様に、児童の性的搾取を促進する者を訴追する国家の特別かつ切実な利益を反映しない。(458 U.S. 761頁)」

 我々は次の問題について考証する機会が無かったが、性的行為を行う者の外見上の年齢は、その性的な描写が社会規範に反するかということと関係していると見なして良いと想定する。性的に露骨な行為を行う幼い児童の画像(picture)が猥褻とされるかも知れないのに対し、同様の行為をしていても、それが成人または年長の青少年のものである場合には猥褻とはされないかもしれないのである。しかしながら、CPPAは猥褻な表現を対象とするものではない。議会は、合衆国法典タイトル18の第1460条から1466条によって猥褻表現を禁止している。Ferber判決において問題とされた立法と同様に、CPPAは猥褻の範疇に属さない表現を規制しようとしており、またMillerの基準に適合しようとはしていない。例えば、CPPAによる規制は、例えそれらが充分な社会的価値を持っていたとしても、映画のような視覚的
表現にも及ぼされる。

 それゆえ、解決されるべき主要な問題は、Miller判決の基準で猥褻と判断されるものでもなく、またFerber判決が規制を合憲とした児童ポルノでもない表現の世界を禁止しているCPPAの合憲性である。


 1996年以前に、議会は児童ポルノをFerber判決で論じられている種類の描写、即ち実在する未成年者を使用して作られた肖像として定義していた(合衆国法典タイトル18の2252条、1994年版)。CPPAは合衆国法典タイトル18の2256条(8)(A)による禁止を維持しつつ、禁止されるべき表現の範疇として3つを加えている。その3つのうち、第1の2256条(8)(B)と第3の2256条(8)(D)について、この訴訟において合憲性が争われた。2256条(8)(B)は、「性的に露骨な行為を行う未成年者の、またはそのように見える」、「全ての写真、映画、ビデオ、絵(picture)、コンピュータの若しくはコンピュータによって作成された肖像又は絵を含む全ての視覚的描写」を禁止している。「全ての視覚的描写」に対する禁止は、どのようにしてその肖像が作られたかということに全く左右されない。この条項は、「バーチャル児童ポルノ」と時に呼ばれる範囲の描写を禁止しており、これはコンピュータで作成された肖像を含むものである。在来の方法で作られた肖像についても同様で、例えば、法令を文字どおりに読むと、「未成年者が性的に露骨な行為を行うように見える絵」である古代神話の一場面を描いたルネッサンス期の絵画(painting)までもが規制の対象に含まれる。また、CPPAは、例え子役を使って撮影されていなくとも、青年の役者が「実際のまたは擬似の(中略)性交(2256条(2))」行う未成年者に「見える」と陪審員が認定すれば、ハリウッド映画も禁止の対象とする。

 これらの肖像は、その製作の過程において児童に被害を与えないどころか、そもそも児童が製作の過程に関与していない。しかし、議会はそれらの肖像がより直接的でない他の方法で児童を脅かすとした。小児性愛者達は、児童が性的行為に加わるように仕向けるために、それらの素材を使用するかもしれない。「成人との性的行為や、性的なきわどい写真のためにポーズを取ることに抵抗のある児童も、他の児童がそのような行為に参加して『楽しんでいる』描写を見せられることで、時に納得させられる場合がある。(議会の答申、合衆国法典タイトル18の2251条に続く覚書(3)参照)。さらに、小児性愛者はポルノ肖像によって「自身の性的欲求をそそられ」、「その結果として児童ポルノの製作と配布、そして実在の児童の性的虐待と搾取を増大させる」かもしれない。同覚書(4)、(10)(B)。 これらの理論的根拠の下では、被害は肖像の製作の方法からではなく、肖像の内容から生じるものとされる。それに加えて、議会はコンピュータで作成された肖像によって生じる別の問題を指摘した。これらの存在は実在の児童を使用しているポルノ業者を訴追することを難しくする。同覚書(6)(A)参照。議会は、画像処理技術が進めば、ある絵が実在の児童を使用して生産されたということを証明することがより難しくなるとしている。実在の未成年者を使用した児童ポルノを所持している被告が訴追を免れないようにするために、議会はバーチャル児童ポルノにまで禁止の範囲を広げた。

 2256条(8)(C)は、バーチャルな肖像を作成するためのより一般的で程度の低い技術的手法を禁じている。この手法はコンピュータ・モーフィング(訳注:コラージュ)として知られる。ポルノ製作者達は、自ら肖像を作るよりむしろ、実在する児童の無垢な画像を、その児童が性的行為を行っているように見えるように改変することがある。モーフィングされた肖像はバーチャル児童ポルノの定義の範囲内に入ると言ってよいのであるが、実在する児童の人権と結びついており、その意味においてFerberの判決における肖像により近い。被上告人らはこの条項については違憲性を主張しておらず、我々もこの点については判断をしない。

 被上告人らは2256条(8)(D)の違憲性を主張している。「のように見える」という条項の文のように、この条項の適用される範囲は極めて広い。2256条(8)(D)は児童ポルノを、「性的に露骨な行為を行う未成年」を描いている「との印象を伝えるような方法で広告、宣伝、上演、描写または頒布」された、あらゆる性的に露骨な肖像を含むと定義している。ある委員会報告では、この条項は、児童ポルノとして触れ込みをされた性的に露骨な肖像に向けられているとされている。上院報告.No.104-358、22頁(1996年)参照(この条項は、児童ポルノ製作者と小児性愛者が、児童ポルノとして触れ込みをされる露骨に性的な肖像の製作または頒布を通じ、児童の性や性的活動への好色的興味につけ込むことを妨げている)。しかし、この法令は触れ込み行為に関係していない所持者ですら罰するものであり、適用範囲はそのようには限定されていない。即ち、一度ある作品に対し児童ポルノというレッテルが貼られると、別の所持者の手に渡った場合にも表現自体に児童ポルノであるという属性が残り、例えその他の点ではいかがわしくない場合においてすら、その所持は違法となる。

被上告人である表現の自由連合その他は、CPPAがそのメンバーの活動を脅かすのを恐れ、California北部を管轄する連邦地方裁判所に提訴した。成人娯楽産業のCalifornia同業者組合である連合は次のように申し立てた。即ち、そのメンバーは、自身の性的に露骨な作品に未成年者を使用していないが、その素材のあるものがCPPAの拡大された児童ポルノの定義に含まれるかも知れないと信じている、と言うのである。他の被上告人は、ヌーディストの生活様式を擁護する本の発行者であるBold Type社、裸体画家であるJim Gingerich、官能的(erotic)肖像を専門としている写真家のRon Raffaelliである。被上告人達は、「のように見える」と「印象を与える」という規定が過度に広汎かつ曖昧であり、修正第1条による保護を受ける作品の製作を萎縮させると主張した。連邦地方裁判所はこれを認めず、政府に有利な略式判決を下した。裁判所は、「『ロミオとジュリエット』のような性的作品のいかなる改作も『禁制品』として扱われるということは『殆どありえそうもない』という理由で、規制範囲が過度に広汎であるが故に違憲無効であるとの主張を退けた。 App. to Pet. for Cert.62a-63a.

 第9巡回控訴裁判所は連邦地方裁判所の判断を破棄した。 198F. 3d 1083頁(1999年)参照。 同裁判所は、表現が見る者に違法行為を行わせる可能性があるという理由で政府が表現を禁止することはできないとの判断を示した。裁判所は、猥褻でもなくFerber判決にあるような実在の児童を搾取して製作されたのでもない素材をCPPAが禁止しているため、これが実質的に過度に広汎であるとの判断を示した。Ferguson判事は、猥褻物や実在の児童を被写体とする児童ポルノと同様に、バーチャル児童ポルノが修正第1条によって守られない範疇の表現として扱われるべきだとの理由から、反対意見を唱えた。 198 F.3d、1097頁。同裁判所は、3人の判事の異議があるものの、再審理の申し立てを拒否することを全判事列席の上で票決した。220F.3d1113頁(2000年) 参照。

 第9巡回控訴裁判所がCPPAを文面上無効としたのに対し、他の4つの控訴裁判所はCPPAの合憲性認めた。 以下参照。UnitedStates対 Fox、248 F.3d 394頁(CA5 2001年)、 United States 対Mento、231 F.3d 912頁(CA4 2000年)、 United States 対 Acheson、 195 F. 3d 645頁 (CA11 1999年)、United States 対 Hilton,167 F. 3d 61頁(CA1)、cert. denied、 528 U.S. 844頁(1999年)。我々は移送命令書を発布した。531 U.S.1124頁 (2001年)。


修正第1条は、議会は表現の自由を奪う法を作ることはできないと命じている。政府がこの命令に違反する態様としては様々なものが考えられるが (例えば、Rosenberger 対 Rector and Visitors of Univ. of Va.、515 U.S. 819頁(1995年)、Keller 対 State Bar of Cal. 496 U.S. 1頁(1990年))、修正第1条により保護された表現に対し刑事罰を課す法を制定することは、表現抑圧の厳しい例である。CPPAの罰則は実に厳しい。初犯者であっても最高15年間投獄される可能性がある。2252A条(b)(1)。常習犯は最低でも5年以上、最高30年以下の懲役に処せられる。同上。軽い刑罰を科することによってさえ本来保護される表現を萎縮させることは十分に可能であるが(Wooley 対 Maynard、430 U.S. 705頁(1977年) 参照)、本件は、我々がなぜ表現の自由を制約する法令そのものの違憲性を正面から争うことを認めているのか、ということを説明するための模範的事例である。これらの厳しい刑罰をちらつかされた場合、この法により規制され、あるいは規制される可能性のある肖像を敢えて配布して規制の合憲性を問おうとする舞台や映画のプロデューサーや、本の発行者などの表現者は殆どいないであろう。憲法は、修正第1条の保障する広大で特別扱いの範囲の表現までも萎縮させる、規制対象の広範な法律を認めないことにより、表現の自由に対し重要な保護を与えている。この原則の下では、CPPAが仮に一定限度を超えて、保護された表現までも禁止するものと認められれば、憲法違反となる。 Broadrick 対 Oklahoma、413 U.S. 601、612頁(1973年)参照。

 児童に対する性的虐待は重罪であり、正常な人々の道徳的本能に嫌悪感をもたらす行動である。立法事実によれば、児童への不法な欲望を心に抱いていたり、衝動を満足するために犯罪行為を行ったりする人々が存在する。議会の答申、2251条に続く覚書(3)参照。また「1999年の児童虐待(合衆国保健社会福祉省児童青少年家庭局)」 参照(1999年に93000人が性的虐待の被害者となったと推定している)。議会はまた、これらの中核となる犯罪者の周辺には、興味半分にこれらの衝動を刺激し、そして写真、及び児童との性的行為を報告する文書の商取引を行う者がるとしている。議会は憲法に違反することなく児童を虐待から法律を成立させることができ、また実際にそうしている(例えば合衆国法典タイトル18の2241条と2251条)。しかし、犯罪につながる可能性それ自体は、憲法上保護されるべき表現を規制することを正当化するものではない。Kingsley Int’l Pictures Corp.対Regents of Univ. of N.Y.、360 U.S. 684、689頁 (1959年)参照(「自由な人々の間では、犯罪を妨げるために適用される抑止力は教育と刑罰であり、表現に対する規制ではない」、内部の引用符と引用文は省略した)。また、我々の感情を害するという理由で表現を禁止してはいけないということも確立されている。FCC 対 Pacifica Foundation、438 U.S. 726、745頁(1978年) 参照(「 社会が特定の表現を不快なものとして受けとめ
るということは、表現を規制する理由とはなりえない」)。以下参照。Reno 対 American Civil Liberties Union、521 U.S. 844、874頁(1997年)(「成人の表現の自由について判断するに際し、『猥褻とは言えない下品な性的表現は修正第1条によって保護される』ことを我々は完全に明らかにした」、Sable Communications of Cal., Inc. 対 FCC、492 U.S. 115、126頁(1989年)を引用)、Carey 対 Population Services Int’l、431 U.S. 678、701頁(1977年)(「保護された表現が誰かを不快にするということは、表現の規制を正当化するものではない」)。

 一般的原則として、修正第1条は、我々が見たり、読んだり、話したり、聞いたりすることを政府が決定することを禁止している。表現の自由には限界もある。名誉毀損、扇動、猥褻物、そして実在する児童を使ったポルノなど、一定の範疇に属する表現は表現の自由の保障の対象外である。Simon & Schuster, Inc. 対 Members of N.Y. State Crime Victims Bd.、502 U.S. 105、127頁(1991年)(ケネディ判事による判決同意の意見書)参照。これらの範疇に属する表現は修正第1条に違反することなく禁止することが可能であるが、CPPAによって禁止されている表現はこれらの範疇には含まれない。第9巡回控訴裁判所の判決の反対意見において、Ferguson判事は、保護されない表現の範疇の中に「バーチャル児童ポルノ」という項目を追加すべきであると提案している。198 F. 3d, 110頁参照。連邦最高裁判所がCPPAを合憲と判断するためには、保護されない表現の範疇の中に「バーチャル児童ポルノ」という項目を追加することが肯定されることが必要となるだろう。

 我々が指摘したように、CPPAは既存の連邦法によるの猥褻規制の範囲を単に拡大するものではない。Miller判決(Miller対California、413 U.S. 15頁、1973年)の下では、政府は、作品が全体として好色的興味に訴えており、社会通念上明らかに不快なものである上に、真面目な文学的、芸術的、政治的又は科学的な価値を欠いたものであることを証明しなければならない。同上24頁。しかし、CPPAはMiller判決の示した猥褻性に関する基準を無視し、性的に露骨な行為を行う未成年者を描いているように見える肖像一般に規制の範囲を広げている。規制される表現が好色的興味に訴えている必要はない。性的に露骨な行為の描写は、たとえそれがどのような形式のものであろうとも禁止される。CPPAは心理学の手引書にある絵や、映画の性的虐待の恐怖を描いた箇所にまで適用される。その上、その肖像が明らかに不快であることすらも要しない。17歳の者が性的に露骨な行為を行っているように見える絵は、常に地域の社会通念上不快なものとされるわけではない。

 CPPAは、真面目な文学的、芸術的、政治的又は科学的価値があるか否かを問わず、その表現を禁止している。10代の者が性行為を行っていることは現代社会における事実であり、時代を通じて芸術や文化のテーマとされてきたが、CPPAは未成年者が性行為を行っているという概念を視覚的に表現することを禁止している。CPPAの下では、描かれた者が18歳未満に見えさえすれば、その肖像は禁止される。合衆国法典タイトル18の2256条(1)。 これは人が性的関係を持つことができる年齢のみならず、多くの州の婚姻可能年齢よりも高い。以下参照。2243条(a)(合衆国の主権の及ぶ海上や連邦政府直轄地における性交可能年齢は16歳である)、「州法に関する合衆国内調査(R. Leiter編、第3版、1999年、384-388頁、)」(48州で親の同意の下16歳で結婚が許可される)、「セクシャリティ、ジェンダー、法(W. Eskridge、N. Hunter共著、1997年、1021-1022頁)」(39州とコロンビア特別区では、性交可能年齢は16歳かそれより低い)。 もちろん、若者達が、自発的にあるいは性的虐待の被害者として、法定年齢以前に性行為をすることがありえることは否定できない。

児童による性行為と児童への性的虐待という2つのテーマは、無数の文学作品を生み出してきた。ウィリアム・シェイクスピアは、片方はたった13歳という、最も有名な10代の恋人達を創造した。 Romeo and Julietの第1幕第2場の9行目参照 (「娘
は14にすらなっておりません」)。 劇の中で、シェイクスピアはその関係をすばらしくそして無邪気な、しかし未成熟ではないものとして描いている。その作品は少なくとも40回は映画化されており、10代の少年少女が彼らの関係を性交によって完全なものとしたことを暗示している(例えば、Romeo and Juliet、B. Luhrmann監督、1996年)。 シェイクスピアは、エリザベス朝時代の観客に向けて露骨に性的な場面を描かなかったかも知れない。現代の監督はより月並みでないアプローチを採用しているが、そのこと自体をもって作品が猥褻なものであるという結論を導くことはできない。

現代の映画は類似のテーマを追い求めている。昨年のアカデミー作品賞にノミネートされた映画にTrafficがある。Predictable and Less So, the Academy Award Contenders, N.Y. Times,Feb. 14, 2001, p. E11参照。その映画は麻薬におぼれていく10代の少女-16歳とされている-を描いている。視聴者は、彼女が麻薬常用により堕落し、最後には彼女が不潔な部屋で麻薬のためにセックスをするようになるのを見る。また、一昨年にはAmerican Beauty がアカデミー作品賞を受賞した。 “American Beauty” Tops the Oscars, N.Y. Times, Mar.27, 2000, p.E1.参照。その映画の中では、10代の少女が彼女の10代のボーイフレンドと性的関係を結び、そして別の少女は中年の男性を性的に喜ばせることに身を委ねている。この映画はまた、観客の目から見れば性的な行為が実際には行われていないと理解することができるものの、ある登場人物が自分は10代の少年が年上の男性と性行為を行っているのを見ていると信じる場面を含んでいる。

 我々の社会では、他の文化と同様に、若者の運命や生き方に共感や普遍的な魅力を感じる。芸術や文学は、我々が皆かつて経験した青春の人格形成期、我々がかつて知っていたように、傷つき易く、失望するときは深く、悲劇的に選択を誤ったりするが、また、道徳的な行動や自己達成にも手が届く範囲にある時期への関心を表現する。我々が言及している映画がCPPAに違反しようとしまいと、これらの作品はCPPAによる広範な規制の対象とされているテーマを深く掘り下げるものである。もし、これらの映画や、他の数百のより注目度の劣る映画が、CPPAの禁止する視覚的表現を1コマでも含んでいると、その映画の所持者は、作品の価値について踏み込むまでもなく、当然に厳しい罰則を課せられることになる。これは、「作品の芸術的価値は、たった1つのきわどいシーンの存在に左右されない」という修正第1条の重要な原則と矛盾するものである。Book named “John Cleland’s Memoirs of a Woman of Pleasure” 対 Attorney General of mass.、 383 U.S. 413、 419 頁(1966年) 参照(「本の社会的価値は、好色的な訴えや明らかな不愉快さによって失われたり、消滅することはない」、多数意見)。修正第1条はMiller判決の下で、猥褻と思われる作品の欠点を補うべき価値の存在について、作品を全体として考慮して判断することを要求している。例えば、猥褻と思われる場面が物語の流れの一部を構成する場合、その場面だけを取り出してみれば不快なものであったとしても、その作品自体が猥褻なものとはならない。 Kois 対 Wilsconsin、408 U.S. 229、231頁(1972年、無記名判決)参照。以上のような理由により、CPPAは、その規制の態様と猥褻の定義から導かれる社会通念への挑戦との間に関連性を欠くという理由で、猥褻を禁止するものとして読むことはできない。

 政府は、上記したようなCPPAの欠陥を解決するために、CPPAによって禁止される表現は、その価値を検討することなく禁止することが許される児童ポルノと殆ど区別できないことを主張している。New York 対 Ferber、458 U.S. 761頁参照。Ferber判決は、肖像が児童への性的虐待の産物である時は、国家がその内容について検討すること無しに排除することが公共の福祉に合致するとの判断をしている。同上761頁の脚注12。また同上775頁参照(「草案では、ニューヨークの法令は特定の概念の伝達までも規制しようとしていない」、オコーナー判事による判決同意の意見書)。(訳注:Ferber判決において問題とされた法令は)作品の内容ではなく、作品の製作そのものを規制しようとするものであった。製作に関与した児童の人権が侵害される場合、その作品に文学的、芸術的その他の価値を含んでいるということは、人権侵害を正当化する抗弁とはなりえない。「性的な表現を社会がどこまで 許容することが出来るのかという問題と、児童を性的搾取から保護することを目的とした立法の射程範囲について、同じレベルで扱おうとすること自体非現実的なのである(同上761頁、脚注12)。」

 児童ポルノの製作と同様に、その販売と頒布の禁止をFerber判決は合憲とした。なぜなら、これらの行為は2つの観点から子供の性的虐待と「本質的に同視することが許される」からである。同上759頁。まず、児童ポルノとは児童虐待の恒久的な記録であり、その被写体となった児童はその流通のたびに人権を侵害されることになる。名誉を毀損する文章と同じく、その表現が新たに発行されるたびに子供の評判と精神の安寧が新たに傷つけられる。同上759頁、脚注10参照。次に、児童ポルノの売買はその製作の経済的動機であるので、その頒布ネットワークを遮断することは公共の福祉に適合するものであった。「唯一の現実的な方法ではないとしても、その製品を売ったり、広告したり、他の宣伝をしたりすることに対して厳しい刑罰を科し、それによって児童ポルノ市場を干上がらせることが最も迅速な手段だと考えられる。」、同上760頁。いずれの判断においても、その表現はそれを生み出した犯罪と直接の関連性があると裁判所が判断したものであった。

 後に、Osborne 判決(Osborne 対 Ohio, 495 U.S. 103頁、1990年) において、児童ポルノの製作、販売、広告の禁止を正当化したものと同様の公共の福祉の観点から、裁判所は実在の児童を使ったポルノの所持を禁止することを正当化した。「児童ポルノの犠牲者の保護という公共の福祉の重要性に鑑みて」、国家が「児童ポルノの流通過程の全ての段階においてこの悪徳を根絶しようとすること」を正当化した。同上110頁。またOsborne判決は、児童ポルノが未成年者をそそのかす目的で使われているということを妨げるという公共の福祉についても言及した。同上111頁。しかしながら、裁判所は、児童ポルノの被害者とされる児童ポルノの撮影に関与した児童への配慮をその判決の根拠とした。同上110頁。 この配慮を無くしては、政府による別の関心が規制を正当化しうるものとはしていない。13-15頁、下を参照。

Ferber判決において問題とされる表現がそれ自体で性的虐待の記録であるのとは対照的に、CPPAが規制の対象とする表現は必ずしも犯罪を記録したものでもなく、その製作の際に被害者が生じない表現までもが禁止される。Ferber判決において問題とされた表現とは異なり、バーチャル児童ポルノは児童の性的虐待と「本質的な関連性」を有するものではない。458 U.S 759頁。政府はその肖像が現実の性的虐待を導きかねないことを主張するが(13-16頁、infra参照)、その因果関係は不確定かつ間接的なものである。現実の児童の性的虐待という被害は、その表現から必然的に起こるのではなく、その後に生じた数量化しない潜在的な要因に依るものである。

 児童ポルノは滅多に価値のある表現にならないとFerber判決が認めている以上、これらの間接的な被害の可能性をもってバーチャル児童ポルノに対する規制を正当化するには十分であると政府は主張する。458 U.S. 762頁参照(「少数のものを除いて、子供が淫らな性的行為行う実演や写真を許可することの価値は非常に僅かなものである」)。しかし、この論拠には2つの弱点がある。まず、児童ポルノについてのFerber判決の判断は、その製作の過程に着目したものであり、その内容に着目したものではない。同判決は、表現が猥褻でも性的虐待の産物でもないとき、修正第1条の保護の範囲外にはならないことを再確認するものである。同上764-765頁(「性行為の記述やその他の性的描写の頒布については、他の点では猥褻でなければ、そして実演または写真等による実演の映像複製物を含んでいない限り、修正第1条の保護が及ぶ」)。

 政府による主張の第二の弱点は、Ferber判決は、価値の無いものだという点を児童ポルノの定義の内容とはしていない、という点である。むしろ、裁判所はこの範疇の作品に重要な価値を持つものがあることを認め(同上761頁参照)、バーチャルな肖像-CPPAによって禁止されているようなもの-によって表現されているものは、当該テーマを表現するための選択肢の一つであり、許された表現の方法であるとしている。仮に文学や芸術の価値の観点から作品に必要だと考えるならば、表現者は法律の定める年齢以上の若く見られる人間を使うことができる。法令による禁止範囲から外れるシミュレーションは別の選択肢を与える」、同上763頁。Ferber判決は実在(actual)と仮想(virtual)の児童ポルノの違いについて単に言及するだけではなく、その判決を支える根拠としている。児童ポルノとバーチャル児童ポルノを区別せず取り扱い、また実在の児童を使用しない代替物をも犯罪とするCPPAに対し、Ferber判決はいかなる合憲性の裏付を与えるものでもない。


 我々が調べたところでは、CPPAはMiller判決の定立した合憲であるための基準に違反し、また、Ferber判決によりその合憲性を支持されるものでもない。政府は、小児性愛者が児童を誘惑するためにバーチャル児童ポルノを使用するかもしれないからCPPAが必要であると主張し、Miller判決やFerber判決とは異なる別の理屈によりその禁止を正当化することを求めている。しかし、漫画、ビデオゲームやキャンディーのように、それ自身が無害であるにもかかわらず、不道徳な目的に使われうるものは多くあるが、それらが誤用されうるからといって、我々はこれらのものを禁制品とするべきとは考えてはいない。無論、政府は児童に不適切な素材を供給する成人を処罰することは許されるし(Ginsberg 対 NewYork、390 U.S. 629頁、1968年) 、児童を不法に誘惑する行為に対し刑罰を課しても良い。しかし、成人が受領する権利を持つ表現を、児童にそれを受領させないようにするために、完全に禁止することは許されない。Sable Communications of Cal., Innc. 対 FCC、492 U.S. 115頁(1989年)参照。Butler判決( Butler 対 Michigan,352 U.S. 380、381頁、1957年)において 、当裁判所は、「未成年者の暴力的、堕落的、非道徳的な行為を誘発する」傾向があることを理由に下品な出版物の発行を禁止する法令を、違憲無効とした。裁判所は、裁判官の全員一致で、国家が「成人に児童向けの発行物のみを読ませるようにする」ことはできないという、修正第1条から導き出される重要な原則を確立した(同上383頁)。我々はこの判断を再確認した。 United States
対 Playboy Entertainment Group, Inc.、529 U.S. 803、814頁(2000年)(『児童の利益を守るという公共の福祉の目的を達成のための、より制約的でない手段が存在する場合には、包括的な表現規制を正当化することはできない』)、Reno 対 American Civil Liberties Union、 521 U.S. 875頁(「有害な表現から児童を守るという公共の福祉は、不必要に広範な表現規制を正当化するには十分ではない」)、Sable Communication 対 FCC, 13-131頁、supra(”dial-a-porn”メッセージに対する規制が「成人向け電話の会話内容を児童に適したものへと制限しているのは無効である」との理由から、違憲であるとした)。

 政府は、その内容から児童を守るのではなく、他の犯罪を犯す人間から児童を守るためという理由で表現を規制しようとしている。しかし、政府が成人向けの表現を、それを児童が受領するかもしれないという理由だけで禁止することはできない、という原則は同様に適用される。問題の罪悪は、行為者の不法な行為に由来するものであり、そもそも問題とされる表現とは関係なく、その行為は独自に犯罪と定義されるべきものである。このことにより、表現規制の射程範囲は限定されたものではないことが基礎付けられる。表現を制約する目的は不法行為の禁止にあるが、結果的に成人が合法的に享受しうるべき表現までも規制することにより、その目的達成のために必要最小限の制約の範囲を超えてしまう。

 政府はさらに、バーチャル児童ポルノは小児性愛者の性欲をそそり、彼らを不法な行為に従事するよう促す、との意見を提出した。この論理的根拠は問題の条項を正当と認めるに足りるものではない。不法な行為を促しかねないという表現の傾向だけでは、それを禁止するのに十分な理由ではない。政府は、「民衆の私的な考えをコントロールすることが望ましい、ということを法律制定の理由とすることは憲法上できない」、Stanley 対 Georgia、394 U.S. 557、566頁(1969年)。

 政府が思想をコントロールしようとしたり、容認しがたい目的の法を正当化しようとするとき、修正第1条の保障する自由は最も危機に陥る。考える権利は自由の基本であり、表現は思考の始まりであるが故に、政府による規制から守られなければならない。

 これらの自由を保護し、また表現の自由それ自体を守るため、当裁判所の修正第1条を巡る裁判例においては、言葉と行為、考えと行為の間には大きな違いがあるという線引きをはっきりさせている。Kingsley Int’l Pictures Corp., 360 U.S. 689頁参照。また、Bartnicki 対Vopper、532 U.S. 514、529頁(2001年)参照(「不法な行為をやめさせる普通の方法は、その行為をする者に適切な罰を科すことである」)。政府は、「いつかはっきりしない時期に」不法な行為が行われる可能性が増えるという理由により、表現を禁止してはいけない。 Hess 対 Indiana、414 U.S. 105、108頁(1973年、無記名判決)。 法令違反や暴力の使用を呼びかける表現を規制することが政府に許されるのは、その表現行為が直ちに違法な行為を誘発し、あるいは惹起する目的であり、かつ、そのような行為を誘発する危険性が高いときに限られる。Brandenburg 対 Ohio、395 U.S. 444、447頁(1969年、無記名判決)。 ここには企ても扇動も教唆も共謀もない。政府は、考えや衝動を促す表現と児童虐待の結果との間の間接的な関連性しか主張していない。より直接的かつ明確な関連性を主張すること無くして、小児性愛者の不法行為が誘発されるかもしれないという理由により、政府が表現を規制することは許されない。

 政府は次に、市場から実在の児童を使用したポルノを除去するために、バーチャルな肖像も同様に禁止する必要があると主張する。バーチャルな肖像は、政府の主張によれば、実在の児童を使用した物と見分けがつかないものであり、それらは同じ市場において、同じ価値を有するものとしてしばしば交換されている。この点でバーチャルな肖像は、実在の児童の搾取によって製作された作品の取引を促進するものであると主張されている。その仮説は俄かに信じがたいものである。仮にバーチャルな肖像が違法の児童ポルノと寸分違わないのだとすれば、実在の児童を用いた肖像は区別ができない代用品の流通により市場から駆逐されるであろう。もしコンピュータで作成された虚構の(fictional)肖像によって実在の児童を使用したものと同様の利益を得ることが出来るのであれば、実在の児童を虐待することによって訴追される危険を冒すポルノ製作者はほとんどいなくなるだろう。

 Ferber判決によって規制が正当化される表現の場合には、表現の作成行為それ自体が、児童虐待の犯罪であり、表現行為の禁止は利益目的を除去することによって犯罪をやめさせる効果を有する。Osborne判決、495 U.S. 109-110頁参照. ただし、表現の背後に犯罪が隠れている全ての場合について、当裁判所は表現の規制を許しているわけではない。 例えばBartnicki判決、supra、529頁(市場の形成を阻害するという目的は、違法に受信された表現をラジオコメンテーターが伝えること自体を禁止をすることを正当化しない)。 我々はこの事案について、隠れた犯罪という物が存在しないため、表現の自由と公共の福祉との間の調整を考える必要はない。例え、政府の児童ポルノ市場の形成を抑止するという議論がある文脈の中で説得性を持ったとしても、この法令は正当化されないだろう。

 最後に政府は、コンピュータ画像処理を用いた肖像製作の可能性が、実在の児童を使ったポルノの製作者を訴追することをとても困難にすると主張する。専門家でさえも、絵が実在の児童を被写体としたものか、コンピュータ画像処理によって作られたものかどうかを述べることは難しい、と我々は伝えられている。その議論では、立証の困難性を解消するために必要な解決方法は、実在の児童を被写体としたものだけではなくコンピュータ画像処理で製作された肖像をも禁止することだとしている。その議論は事実上、憲法上保護されていない表現を禁止するための手段として、憲法上保護されるべき表現を禁止することが許されるとしている。この分析は、修正第1条について、原則と例外を逆転させてしまうものである。

 政府は、不法な表現を抑圧する手段として合法な表現を抑圧してはならない。保護されるべき表現は、ただ保護されていない表現に似ていると言うだけで保護されない表現に転じるものではない。憲法はその逆を要求している。「保護されていない表現が罰せられないために社会に起こりうる危険よりも、保護された表現が沈黙する可能性のほうが、より重要なのである」、Broadrick 対 Oklahoma、413 U.S. 612頁。過度の広汎性故に無効の原則は、もし保護されていない表現を禁止する結果として、相当な量の保護される表現が禁止されたり、その表現の自由が脅かされたりする場合には、政府が保護されていない表現を禁止することを許さない。

 かかる理由に基づく異議を避けるために、政府はCPPAを、表現の自由を制約する条項としてではなく、表現が合法であることの証明責任を被告人に転換させる条項として我々に読ませようとした。この点に関しては、政府は、素材が成人のみを使って作られており、実在の児童を描写したという印象を伝えていないことを立証することは、有罪判決を避けるための積極的抗弁となると述べている。合衆国法典タイトル2252 条A(c)参照。

 政府は、被告に自らの表現が非合法でないことを証明する責任を課そうとすることによって、深刻な憲法上の困難を提起している。積極的抗弁は訴追されない限り可能ではなく、被告人は、立証に失敗した場合は重罪について有罪判決を受ける覚悟をして、自己の行為が積極的抗弁の範囲内となることを証明しなくてはならない。CPPAの下において裁かれる場合、反証責任は重いものである。被告人自身が作品の製作者ではないとき、彼には被写体となっている行為者を特定することは勿論、その実在性さえも証明する方法がないだろう。もし立証の困難性が政府にとって深刻な問題であれば、無実の所持者にはとっては少なくとも同程度に困難になることは明白である。さらに、CPPAは1996年以前に製作された作品にも適用され、その結果として、製作者自身も立証責任を果たすには十分なその製作の記録を保存していない場合がある。抗弁の証明に失敗した場合、重罪について有罪宣告を受けることとなりかねない。

 しかし、我々は、政府がかかる立証責任を表現者に課すことの是非について決める必要はない。例え積極的抗弁の存在が法令を修正第1条に違反しないものとして救済することができたとしても、設定されている積極的抗弁は不完全であり、不十分である。その製作について児童が関与していないことを立証しえたとしても、有罪判決を免れ得ない場合が存在するのである。所持について訴追された被告人は、その頒布行為について訴追された場合とは異なり、当該フィルムには成人の役者しか出演していないことを立証したとしても、それは有効な抗弁とはなりえないのである。頒布について訴追された映画製作者は、頒布の訴因については処罰を免れる一方で、同じ映画製作者及びその流通に関与する全ての者は、所持の訴因について訴追される可能性があるのである。さらに言えば、積極的抗弁の存在は、コンピュータ画像処理によって、又は未成年者に見える成人の役者を用いない他の手段によって表現を製作する者を保護しない。同上参照。これらの事案では、肖像を製作する際に児童を傷つけていないことを被告人は証明することができるが、かかる積極的抗弁は被告人が有罪判決を受けることを妨げるものではない。この理由により、積極的抗弁の存在は、実在の児童を使用して製作された肖像とバーチャルなものを区別することが出来ないという政府の主張する表現規制の根拠と無関係な相当な量の表現を保護しないものであるから、積極的抗弁の存在はCPPAの合憲性を基礎付ける根拠とはなりえない。

 要するに、2256条(8)(B)はFerber判決とMiller判決で規制を認容される範疇に属さない表現をも規制対象とするものであり、その規制を正当化する根拠として政府が主張するものは、当裁判所の判例及び修正第1条により正当化されるものではない。この条項は、かなりの量の本来合法とされるべき表現を削減するものである。この理由によって、2256条(8)(B)は規制範囲が過度に広汎なものであり、違憲である。


 被上告人は同様に2256条(8)(D)の違憲性を主張している。この条項は、性的に露骨な行為の描写について、「素材が性的に露骨な行為を行う未成年者の視覚的描写であるか又はそれを含むとの印象を伝えるような方法で、広告、宣伝、上演、描写又は配布されたもの」を禁止している。上告人、被上告人の双方はこの条項を児童ポルノに見える素材を禁止する条項とほとんど同一の物として扱っている。政府の見解によると、その2つの条項の違いは「『印象を伝える』条項が、その素材がどのように売り込まれているかについて照し合わせて考慮・評価することを陪審員団に対して要求する」点にある(Brief for Petitioners、18頁、脚注3)。 しかしながら政府は、それでもなお陪審員の判断が主として禁止される作品の内容に基づくであろうと想定している。

 我々はこの見解に異議を唱える。CPPAは、未成年者を描写しているという「印象を伝える」性的に露骨な素材を禁止している。その文言は2256条(8)(B)における「のように見える」ものの禁止のように思えるかもしれないが、それは肖像の内容に関する判断を殆ど要求していない。2256条(8)(D)の下では、作品は性的に露骨なものでなければならないが、その他の点では内容を問題とされない。映画は、未成年者を関与させる性的に露骨な場面を含んでいなくても、もしタイトルと予告編がその映画にそのような場面があるという印象を伝えていれば、児童ポルノとして扱われる。犯罪成立の判断は表現がどのように呈示されているかにより決定され、描写の内容では決まらない。立法者による立法趣旨は児童ポルノのように見える素材の問題点について詳細な検討を加えているが、単に児童ポルノであるとして視聴者に触れ込まれる肖像のもたらす害悪について何も触れていない。

 政府は、この条項の合憲性を支持するに足りる真剣に取り組むべき抗弁を提出していないし、CPPAを支持する他の議論は2256条(8)(D)の合憲性を支持する役には立たない。これらの素材は、例えば刑事裁判において、実在の児童が関与した児童ポルノとの区別が困難なわけではない。当裁判所は、ある素材を猥褻かどうか判断する際には、触れ込みをする行為の存在が事実認定の根拠となりえるものであると認定した。Ginzburg 対 United States、383 U.S. 463、474頁(1966年)参照(「判断の微妙な事案においては、触れ込み行為を裏付ける証拠の存在が、問題となる表現物の判断に際して有力な判断材料となり、その結果として猥褻性テストの基準を満たすものという判断を導くかもしれない」)。 被告人が「単に好色的な訴えかけのために性愛本の商業的頒布(同上466頁)」に関与している時、彼または彼女がその作品を製作した状況は表現物の猥褻性の判定に重大な関連性を有するであろう。

 しかしながら、2256条(8)(D)はGinzburg判決の射程範囲外にある相当量の表現を禁止している。この条項により禁止される範囲内に属する表現物は、それがどのように市場に出され、販売され又は描写されたかについて、受領者に何の責任も無い場合においても、その者の手中で汚名を着せられ、違法である。さらに法令は、その宣伝状態などが「商業的利用」の試みの一環であることを要求していない(同上)。結果として、CPPAは児童ポルノの触れ込みを禁止する以上のものとなっている。それは、流通の初期段階において児童ポルノとして説明又は触れ込みをされた作品の所持を禁止するものである。該当条項は、未成年の役者が出演していない性的に露骨な映画について、未成年者が出演していることを想起させる箱に収められているということを理由として、これを禁制品とするものである。その映画に児童が出演していないことを所持者が知っている時でさえ、所持は犯罪とされる。より厳密な規制を修正第1条は要求している。この理由により、2256条(8)(D)は、実質上過度に広汎な表現を規制するという理由により違憲である。


以上の理由により、2256条(8)(B)と2256条(8)(D)は過度に広汎な表現を規制するという理由により違憲である。したがって、その条項は曖昧であるので無効であるという被上告人の主張について判断を示す必要は無い。

 原審判決の結論を維持する。

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『デウス・エクス・アートマキナ』:作画AIによる日本オタク界への大局的影響を考える

画像:2022年10月の段階で三つの作画AIに「女の子、キツネ耳、白耳、白尻尾、ぴっちりボディスーツ、だぼだぼジャケット、秋葉原、夜の街、雨、路面に反射」などと入力した出力した結果。絵柄は指定しておらずそれぞれの作画AIのデフォルトスタイルである。

■今回の騒動の背景を少々……

作画AIが及ぼす影響について日本のクリエーターや受け手側の間でかなり憂慮する声が広がっています。この10年、機械学習の躍進とそれが社会に及ぼした影響はすさまじいの一言としか言いようがないと思います。機械翻訳の質が飛躍的に向上したことによって一般的な会話であれば機械によってその内容が判別され、多言語へと置き換えることが可能となったことに目を見張らせた人は少なくないでしょう。AI——人工知能は一つの流行り文句となりエアコンの設定温度から脱税行為を見つける仕組みにまで関連付けられるようになっています。絵の世界においても2000年以前からユーザーの描く線を補正し、アニメーションをより滑らかにする機能で貢献してきました。

しかしさすがに誰もAIアルゴリズムの向上で人が書いたイラストを再現できるとは予想できなかったでしょう。

コンピューターがチェスで人間より優れるようになるにはかなりの年月が掛かりました。しかし2022年の夏の数か月の間でコンピューターが作成するイラストの完成度は目覚ましい速度で成熟を推し進め、夏が終わることには作品によっては人が描いたのかAIが描いたのかを訓練された絵描きであっても見分けしにくい作品がどんどん増えています。

2022年7月、Midjourneyがかなり高度なイラストをテキスト入力された内容に合わせて作成できるということでネットで話題が沸騰しました。これまでも画像を作成できるAIシステムはありましたが、Midjourneyは西洋絵画などを軸足にして画像を出力させたのが大きな話題を呼びました。ユーザーは様々な描写内容をテキストで入力するとAIがその内容に合わせてなるべく忠実な画像を出力をします。Stable Diffusionがこれに隋髄しますが、こちらはオープンソースということもあり費用を払わずいくらでも画像を作成できるということが強みを発揮しました。Midjourneyに比べるとStable Diffusionの作成する画像にはややたどたどしい部分がありますが、的確なテキスト入力と細かい調整を繰り返せば目を奪われるような美しい絵を数分で作成することが可能だったのです。人間が同じ絵を描こうとすれば数日かかります。

ネット上のクリエーターのみならず多くの人々を驚かせたのがMidjourney作成イラストがアメリカ合衆国コロラド州のステートフェアーで佳作として賞を受賞した事件です。投稿者は色々な微調整や細かい仕上げ処理が施されたイラストであればAI作画であってもそれは芸術的な試みとして認知されるべきだと訴えましたが、異論も続出します。反論としてはその絵は作画AIが活用するアルゴリズムが可能としたものであり、AIが活用した膨大な量の参考資料がなければ設立しないというのがあります。

コロラド州でAIによって作成された絵が人間が作った絵よりも高い評価を得て賞を獲得したことでAIが人間のクリエーターを置き換えること可能性がより現実味を帯びます。しかしこの危機感は主に西欧の芸術絵画を描く画家やコンセプトアートを生み出すクリエーターや写実的なイラストに携わる方々に限定されていました。この時点で多くの日本のクリエーターによって作画AIを背景の作成や色彩確認・調整の道具としては便利だがキャラクター自体についてはまだまだ人間の活躍する領域にとどまっているように思えました。

■NovelAIというバケモノ

しかしこの見込みは2022年10月初頭にNovelAIがあっけなく打ち壊してしまいました。日本のアニメ・マンガ画風でキャラクターを説得力ある形で描けるようになったのです。NovelAIは取り扱いが楽で高品質のアニメ・マンガ画風のキャラクターを何枚も即座に作成することできます。NovelAIはStable Diffusionをカスタム化したAIで予め日本アニメ・マンガキャラを作成することを想定し、Danbooruという主に世界中のユーザーによって違法アップロードされた日本アニメ・マンガ画像で構成されたまとめサイトの膨大な画像データを参考にするよう設計されていました。Danbooruはかなり前から稼働している画像アーカイブでユーザーによる非常にきめ細かいタグ付け(黒髪、褐色、巨乳、太い眉毛、八重歯、メガネ、セーラー服、夜景、夏、プールなど)が可能となっているので画像のデータセットとしては理想的です。

NovelAIを活用すればユーザーは簡単な指示をいくつか繰り出すだけで何十枚ものイラストを瞬く間に作成することができ、それらの画像の所有権はユーザーものとされていました。出力された画像はすべて出来良いと言えませんが、中には人の手で書いたイラストと並べてもそん色のないのも生み出せます。

上手く調整すればNovelAIは既存の絵描きさんの絵柄を再現することができます。指定された絵描きの絵柄で特定のキャラを任意の状況で描くことが可能なのです。出力結果には良し悪しはありますが、時には流し見ではAIとはとても思えないほど良い物を作成できます。

■作画AIの長所

まず最初にここで言う作画AIとは学び、考え、創作する力があるコンピューターの話をしているわけではありません。現在においてAIとはプログラマによって生み出された複雑なアルゴリズムを用いた機械学習システムであり、そのシステムはユーザーによって操作されます。この他にもこのような処理を模したソフトウェアの機能もAIと俗称されます。機械学習の内容は人によって作り出され、そのデータ処理は人が指定したパラメーターを元に進められます。SF作品に登場するAIとは異なり、今現在のAIには意識はなく高等生物には必要不可欠とされている無制限連想学習(unlimited associative learning)という生物が感じ取った刺激を記憶・整理する手法を備えていません。

作画AIが人間を置き換えることは不可能です。人が違う人を置き換えることができない以上、AIがそれを成し遂げるとは到底思えません。(少なくとも人類が人間を完全に複製する手段を確立するまでは無理でしょうし、そもそも人間を構成する体と心についての理解はかなり危ういところが多いのが現状です。)

作画AIは参考資料に既存の作品に大きく依存しており、ユーザーが的確なイメージを思い描けないと洗練された出力を確立することは難しいです。題材によって共通性の高いパターンを把握し、絵をそれら要素へと解体し再構築します。この作業が実に滑らかに執り行われているのには驚かされますが、コンピューターは新しいアイディアを生み出すことはできません。

しかし「無限の猿定理」(多くのサルにタイプライターを与えて無限の時間を与えランダムにキーを叩けばやがて文学作品が生まれる可能性がある)は作画AIにおいて有効であると言えるでしょう。ユーザーが膨大な数の絵を出力させることが容易であり、なおかつ人間は混沌や自然の中でパターンや記号・意味・特徴を見出しそれに意味を与える力(例としては変哲のない木目の中で人の顔を見出す傾向)を授かっているのでやがて作画AIによって生み出された作品が本当に革新的な芸術作品を生み出すきっかけになる可能性は十分あるでしょう。

機械が生み出した「新しいコンテンツ」を人が解析し、楽しむこと自体はそれほど新しい現象ではありません。人は何十年も前からコンピューターを相手にゲームを楽しんできましたし、ランダム要素を組み込みプレイヤーが楽しめるマップ作りをさせることもできます。これら自動作成マップのプログラムの精度が向上した結果、人が作ったのかコンピューターが作ったのかわかりにくいレベルまで完成度が高いこともあります。2010年代中盤から機械翻訳の質はかなり向上しただけではなくて、同年代末からユーザー対話式物語を紡ぐ能力もかなり躍進しています。

しかし作画AIとこれまでのAIと大きく違うことは出力しているのが画像だということです。この場合、コンピューターは読み解くのが必要な文章を作成しているのではなく、即座に判別することができる画像です。人は文章を読み、その内容を解きほぐす必要があります。どの出力例がより良いのかを確認するために膨大な量の文章を読むのはほとんどの人にとって苦痛です。しかし作画AIの出力であれば即座に気に入るか否かを判別できます。正確性は低くとも人はおおよそ文章を読むのより絵を見て判断する速度が速いです。ユーザーはそのコンピューターが生んだものが適切なのかどうかを判断する時間が短くて済むということでこれまで大量に生み出されてきたAI出力データと根本的に違うのです。

■作画AIに対するクリエーターの反応

作画AIが登場してまだ時間が短いのでこれらが人間の想像力やクリエーターのコミュニティーに対して与える影響について予想することはまだ難しいでしょう。

今後しばらくはAI作画を廻って盗作行為である否か、創作性を発揮しているか、想像とは何を意味するのか、クリエーターへの配慮や倫理的待遇などが活発に議論されるでしょう。日本のクリエーターの中では自らの作品を学習対象となるデータ集積に一部ならないように求めています。しかし米国においては現段階では著作権法の中のフェアユース事項のもとで機械学習は合法とされており、日本においては2018年の著作権法の改正で既存の著作物を機械学習対象として容認するのが加えられています。

たくさんのクリエーターが画像まとめサイトして機能しているDanbooruから自らの作品が取り除かれることを要求されていますが、既にこのサイトは丸々アーカイブされており、まるまるダウンロードすることが可能となっています。さらにプログラマーによって画像内容を区分するためにタグ作業を自動化したプログラムも作成されています。例えオンライン上のDanbooruが空っぽになったとしても画像集積サイトは他にもたくさんあり、作画AIにとって貴重なデータ集の提供先が複数あるのが現状なので、データの集積を防ぐのは現時点では非現実的だと言わざるを得ないでしょう。

たくさんの方々の創意工夫が結実して生まれた過去のたくさんの作品に依存しており、多くの努力の成果にただ乗りしているとして作画AIに眉をひそめる人は多いです。品がないかもしれませんが、ほぼ確実に合法です。もしコンピューターが原典とは明らかに違う作品を翻案することができたのであれば、それは人が行うことと同じことです。論理的に考えても人がやって合法なことをコンピューターに委任した場合は合法であるべきです。問題は手段ではなく、簡易性と規模、そして正確性です。

■作画AIの合法性と倫理性について

既にふれましたが当人の関与ないままでその人の絵柄をまねて絵を生み出すことができます。原則論として著作権は「作風」を保護対象としていません。もし私がサルバトーレ・ダリの絵柄で月面着陸を描いたとしてもその作品は私のモノと認められ、著作権の保護対象となるでしょう。他人の創作物を真似るのは才能を発達させる大事な過程であり、人類が創作行為を始めた時から行われたことです。我々は他人の作品を真似り、再現し、学ぶことでやがて自らの作風を確立します。クリエーターの世界は人が自らの創作を切磋琢磨させ、やがて独立して自らの作品を生み出せる作り手になることを想定しています。少なくともリミックスや模倣、再現においてその個人の創意工夫がどこかで織り交ぜられると仮定します。人は他人が作ったものをそのまま全く同じに作ることはできませんが、コンピューターはできます。

またコンピューターが他人の絵柄で大量の作品を生み出せるというのは色々な問題を発生させる可能性が決して小さくありません。もし作画AIが私の絵柄をそっくりそのまま再現し、受け手側も作ったのが本人なのかコンピューターなのかまったく判別できないほど精密であり、なおかつその私の絵柄で描かれた真贋性が判別できない作品が大量に生み出され、私本人の作品が受け手側の目に届かないほど脇に追いやられた場合、私には不正競争で訴え出る権利はあるのでしょうか?もしくは私の絵柄そっくりそのままで私の政治信条とは異なる政治的発言を繰り返した場合はどうなるでしょううか?フェアユースは創作行為や表現の機会においてある程度の平等性を想定していますが、AI作画はこの想定を容易に打ち壊すかもしれません。

芸術の世界において贋作の歴史はかなりさかのぼりますが、作画AIが作家の生活を脅かしかねない側面についてはディープフェイクや名誉棄損の枠組みで考える必要があるかもしれません。現時点で今後どうなるかは予想しづらいですが、しかしこれまで成り立っていた創作行為の前提条件がぐらついているのは否めない事実だと思います。

例えば創作途中の画像をコピペしてそのまま本人が絵を完成させる前に他人が絵を完成させることが大変容易になってしまいました。他人の創作物を拝借し、その貢献度合いを隠ぺいすることも可能です。クリエーターはその作風が常に進化するもので、長い年月をかけて大きく変化することは珍しくありません。そこでAIに古い絵柄とキャラを学習させ、20年前の作風そっくりで新作を生むことが可能です。例え何らかの手段を用いて収益化を防いだとしても、本人からすれば古い絵柄の「新しい」作品がコミュニティーの中で溢れるのを喜ばしいとは思わないかもしれません。

AI作成画像はこれまで遭遇したことないような倫理的な課題を提示しており、そのために作画AIによって生み出された作品を忌避する流れも一部のコミュニティーで発生しています。

キャラクターや作品の版権元がネット上で投稿されたファンアートを広報活動の一環として活用することは珍しくなく、これを円滑に行うためにTwitterで活用できるハッシュタグを準備し、ファンがそのハッシュタグをつけて投稿した際には版権元が活用することを容認したとするようなシステムを運用している例もあります。もちろんこれは投稿者が不正を行っていないことを前提としている性善説で成り立っているシステムです。作画AIによって生み出されたイラストに創作性があるのか否かについてまだ判断がしにくいのが理由であるためか、複数のVtuberはAI作成画像を投稿する際には作画AIを活用したことを明記するかまたは公式ハッシュタグをつけて投稿するのを遠慮するように要望し始めています。

また複数の画像掲載プラットフォームやコミッション(有償画像発注)仲介サービスや市場において作画AIの活用を制限したり、禁止するケースも始まっています。規制の理由は作画AIの出力した画像の創作的所有権にめぐる議論がまだ継続しているだけに留まらず、作画AIを活用すれば短期間で膨大な数の作品を生み出し、人間の創作ペースを簡単に上回ることができるというところがポイントでしょう。作画AIの生産性とこれが示唆する経済的な影響は広範囲にわたると思いますが、これについてはまた後程触れます。

■作画AIは単なる道具か?道具であり道具ではない側面

しかしこれ以上進める前に作画AIが生み出した絵とこれまで絵を見分けるのが意外と難しい点について言及させてください。ユーザーが入力する文章に支持されて作画AIが生み出す画像は特定のアルゴリズムに依存していますから、AIが出力例を解析してAI作成において特徴的な傾向が含まれているどうかを理論上では確認することができます。これはある程度までは有効性でしょうが、作画AIが生み出して絵に人が手を加えることでその本性を誤魔化すことは難しくありません。

さらに複数のクリエーターが作画AIを活用して自らの作品の品質向上の手段として関心を露にさせています。例えばマンガは主に画面手前のキャラクターを中心に展開しますが、背景に人物がいるのが重要な場合があります。マンガ家がアシスタントを雇う余裕があれば背景に適当な人物を描いてもらうことができます。マンガの物語において根幹をなしているのがコマ割りとストーリーの流れを作る作業ですが、背景や様々な画像要素の処理は物語作りから必要不可欠ではないかもしれませんが必要な作業です。マンガはかなり単調な作業が多いです。もしマンガ家がアシスタントを雇う余裕がなく、時間的な余裕もないのであれば著作権フリーの画像集や素材集を活用するかもしれません。それではこの作業をAI任せにしても物語作りに大きな支障をきたすでしょうか。現実には多くの芸術絵画は卓越した画家の指導の下で多くの弟子と一緒に協力して生み出されてきました。そのよう生み出されたから言ってその作品の価値は下がるでしょうか。

これまで絵で物語を伝えたい、もしくは自らのビジョンを具体化したかったが何らかの理由でそれを実現できなかった人の願望を作画AIは満たすことができるという点を検証する必要があるのではないでしょうか。作画AIの力をもってそれまで生み出されることが叶わなかった作品を生み出せるのであれば作画AIにはきちんとした存在価値があるのかもしれません。

私個人の考えとしては作画AIは道具ですが、色々な影響をもたらしかねない道具だと思います。悪用できる一方で人助けにもなりえます。創作を阻害する側面があります、同時にうまく活用すれば人の創作性を加速させ、さらに豊かな表現を生む道具にもなれるでしょう。作画AIを考えるとき、個人的(ミクロ)な観点も大事ですがこの変革についてはその影響力があまりにも強大であるがゆえに社会的(マクロ)観点で検証するのが必要だと思います。

■懸念される社会的・経済的影響

経済学では色々な生産の手段がどのように異なる結果を生み出すのを考えます。生産性は手段や資源によって大きく左右されるのです。例えば化学肥料を使うことで田畑の生産性を高め、特定の地域の生産量を増やします。しかし肥料の多用によってその余剰が河川へと流れ込み、やがては川や海辺の水質汚染を発生させて生態系を狂わせ、特定地域の漁業やその漁業に依存する業種に悪影響を及ぼしかねません。漁業関係者と漁業に依存する消費者は農家がとった選択肢の望まれない結果を被っているのです。

このような公害やそれが生み出す悪影響を「外部コスト」もしくは「外部性」と呼びます――ある経済取引が理由で生み出されるもその取引には関わっていない外部に対して具体的に発生するコストや出来事です。一つ一つのコストはそれほど大きくなくとも積み重なねでその影響力は莫大で広範に及ぶことがあります。一人が車を運転しても影響は少ないですが、何百万人が車を運転すると問題を起こします。

外部性の問題は公害にはとどまりません。例えば飽くまでインチ・ポンド法を使い続けるアメリカはインチ・ポンド法を使っていない国々に対して不の外部性を強いていると言えなくもないです。アメリカ以外の世界各国はほぼ共通でメートル法を採用していますが、世界でもっとも大きな単一市場であるということでアメリカの選択は世界各国に対して色々な影響を及ぼしているのです。

作画AIに依存した画像作成もまた同じような外部性を伴う可能性が非常に高いです。作画AIを組み込んだクリエーターのその生産性は向上するでしょうが、市場で作画AIが多用されるようになり作画AIを活用していないのに活用していると嫌疑掛けれて不利な立場に立たされる状況が考えられます。外部性というよりもダンピングにちかい話になりますが、作画AIに依存して大量の絵が作成されるようになり生活苦になるクリエーターと登場する可能性は高いと思います。数回のクリックで自分好みの絵が無料で生み出せるのであればなぜ対価払ってまで絵描きを雇う必要があるのでしょうか。この世はクリエーターの熱心なファンばかりで構成されているわけではないのです。この世はクリエーターのファンにばかりではなく、人によっては作り手よりも作り手が生んだ成果物にしか興味のない人もいるのです。

しかしこのような結果を生むという保証はありません。作画AIが突き進むことで逆に人の手を借りた作品作りが注目され、人間が生んだ作品に対する需要が高まるかもしれません。それでもな、私はこれからクリエーター業界はかなり激動するのではないかと思っています。それぞれは小さく見えても作画AIが徐々に色々なところで浸透し、これからさらに進化するのが積み重なり、やがて現段階では予想しえないような変化を生む可能性が高いと思います。

■作画AI最大の衝撃

作画AIのもっとも衝撃的な要素はコンピューターがアルゴリズムを使って絵を描いていることではなく、膨大な量のイラストが簡単に、手短に、そして匿名で生み出せるということです。絵描きは理想の絵に近づこうと努力を重ねますが、最大の障害は「才能」でも「感性」でも「技術」でも「創造性」でもなく、「時間」です。どのようなクリエーターも全員同じく「時間」という制約に苦しめられますが、作画AIが浸透することでクリエーターが絵に対して時間を投資するのが大きく損なわれることになると思っています。

作画AIの力を借りればクリエーターはその効率を向上させることは事実です。しかしこれは同時にクリエーターがより精密で高密度で完成度の高い絵を短期間で生み出せるのが期待されることを意味します。作者が色々試行錯誤し一つの作品に時間を投資するのがより難しくなります――なぜなら同じ時間をアルゴリズムに依存した方が早く作品が作れるからです。

作画AIをついて考えるとき、技術革新が特定の経済活動に大きな影響を及ぼしたことを連想します。写真機、レコードやその磁気テープなど音声収録方法、自動車などの発明……色々思いつきます。

これらの発明は人の生産性を向上させ、たくさんの人々の生活をより豊かにさせました。しかし同時に発明当時はあまり目立たなかった外部コストを生み出しています。写真は絵画の職業を変貌させ、音声収録技術は観客と音楽家の関係を根本的に変えました。自動車は人の営みを変えただけに留まらず、それそこ生活空間そのものを作り変えてしまいました。

AI作画は社会と人が創作物とどんな間柄を持つかを変えるでしょう。

■技術革新に対する市場の反応の歴史的傾向

飽くまでも原則ですが、何らかの発明や配給経路の変化によって特定市場に対して何らかのサービス・商品の供給が急激に増えた場合、価格は下がり集約が発生します。

ローカルな市場で靴の供給が爆発的に増えると競争について行けない小さなメーカーは潰れ、より競争力のあるメーカーの事業規模が拡大します。スマートフォンに写真撮影機能が追加されたことによって写真撮影が簡便かつありふれたものとなった段階でカメラへの需要が減り、カメラメーカーの数が減りました。

競争が激化すると、企業に対してはより付加価値の高いサービス・商品を追及することで競争をやり過ごす、もしくは価格帯を大量生産・消費を前提とした業務形態へと変更するのを圧力が強まります。

市場が飽和状態となった場合、その市場は廉価品に独占されるようになります。当初は高価格帯・中価格帯・低価格帯で構成されていた市場であっても、低価格帯が圧倒し、凡庸な中価格帯は急激にやせ細り、高価格帯は生き残りをかけて高い品質を維持した競争力で状況を乗り越えようとします。後ほどそれまで凡庸だった中価格帯のものが再発見され、その価値が再び見直されても、市場形態がすでに根本的に変わっているので中価格帯事業の再参入は難しく市場は主に最低限の機能・サービスを廉価で提供する低価格帯事業が台頭します。

しかし低価格帯事業の中核である廉価版は専門性が少なく付加価値が低いのでやがてことなる事業形態への変貌する動機が強くなります。すなわち市場を独占しつつも利益率を高めるために事細かいオプションを追加することで実入りを向上させる、もしくはより利益率の高い事業と抱き合わせることで収益を向上するビジネスモデルを模索します。当初は独立事業としても十分成り立っていたビジネスがより大きな多角的事業形態へととりこまれてしまうのです。歴史を振り返るとこういった例は非常に多いです。

電話は当初独立した事業でした。多くの国で電話は公益事業でしたが、民営化によって自由市場の中で競争する事業者へと転換させられました。やがて技術革新が市場集束を招き、その事業がありふれたサービスであるということでより大きなITサービスの一部へと転換しました。現在、単に電話契約することは少々面倒となりました。なぜなら多くの企業は電話だけではなくISPやケーブルTVなど何らかの抱き合わせ契約を消費者に求めるようになったからです。

音楽は民衆のエンターテインメントの定番で音声収録装置が開発されたのちも生演奏はまだまだありふれたものでした。しかしラジオとTVが社会に広く浸透するようになり、市場は音楽の廉価版で溢れるようになりました。この結果、音楽演奏は付加価値の高いプレミアへと進化する結果となりました。やがてカセットテープやCDもネット配信に圧倒され、現時点では音声再生装置はスマホや家庭用エンターテインメントシステムの一部へと集約されてしまいました。

■作画AIは特異点となるか?

このような商品・サービスの供給の集約は過去何度も発生しています。しかしイラストなどの文化的コンテンツは他にはない特徴をいくつも備えています。車や白物家電とは異なり、たくさんの選択肢の中で一つだけ選ぶ必要がありません。どの会社を選んでも骨子は同じである電話とは異なり、違う絵描きさんを選んでも以前と同じコンテンツを提供されるわけではありません。

作画AIが私の絵を模造することできたとしても、その模造品が市場にあふれたとしても、兼光の絵は兼光にしかできません。

しかし絵などのコンテンツに付与する価値は主観に基づいています。もし私の絵を模したAIの絵に満足する人がいた場合、私がその絵に関わっていようがいまいが関係ありません。もし作画AIが生んだコンテンツが消費者の要望にしっかりと沿っているのであればその人は人間がコンテンツよりも作画AIが生むコンテンツに満足するでしょう。

既にふれましたが作画AIのもっとも革命的な点は短期間で絵を作ることができることであり、そのために人が作る絵よりもはるかにコストが低いです。

機会費用(Aを得る為にBを犠牲にする)その商品・サービスを確保するのに必要とされるコストに比例します。ヨットを買うのは簡単なことではありません。大金が必要ですし、操船するのを学ぶための時間も必要な上に維持のための諸経費がかかります。作画している間その人の時間を拘束するわけですから人間に自分の要望する絵を描いてもらうにはそれなりの対価が必要です。

一方で作画AIを活用するときに生じる機会費用は限りなくゼロに近いです。

例えば手元の資金が不足しているので自分が生み出したいコンテンツの制作にプロの絵描きを招き入れるのが難しいことがあるかもしれません。作画AIを活用したイラストコンテンツを確保するのに必要な機会費用は人を確保するのに比べてはるかに低いのでこれまでは実現するのが難しかったコンテンツを完成させるのもより現実的になります。

容易に予想できるのは市場において提供される創作コンテンツの量がこれから爆発的に増える一方、それらに付与される価値は一部分野においてはかなり下落するということでしょう。

作画AIは他人の絵柄を再現するように調整することが可能なので特定の絵柄に付与される価値は下がるかもしれません。しかし絶対こうなるとは言えません。特定の娯楽作品に与えられる価値は完全にその人の主観に基づきます。特定コンテンツに対してより高い価値を見出す人が出てくるかもしれませんし、消費者として市場に参入する人が増えれば特定のコンテンツの価値が上がることも十分に考えられます。例えそうであったとしてもイラストが大量生産されることを通して市場が飽和状態となる外部性コストを起こす可能性が高いと言えるでしょう。今までは単純に洗練された技術によって高い完成度を誇っているということだけで売れていた作品も等しく高い完成度ある作品が市場にあふれかえることでその魅力が陰るかもしれません。

■「ご注文をセットになさいますか?」

これから私たちは「ファーストフード」ならぬ「ファーストアート」の時代へと突入するかもしれません。伝統的なレストランに対する需要は将来もなくならないでしょうが、かつてはありきたりで中庸だった料理の中には現在は高級料理として取り扱われる例もあります。昔、クラシカルやポップに関わらず安価で生演奏を楽しめることができました。現在、生演奏はかなりの対価を支払う用意のある趣味人のためとなり、それ以外の人々は録音で満足することしかできません。

作画AIの登場によってこれまでなかった機会が生まれることは確実です。それがどのような新しい機会であるかはまだまだわかりません。もし今後、作画AIが広く社会に浸透すれば――本当にそうなるかはまだはっきりはわかりませんが、仮にそうなるとすると作画AIは新しい機会を生むだけではなく同時に様々外部コストが絵描きに対して影響を与えるでしょう。特にこれから絵の世界に参入する人に対して顕著な影響を与えると思います。

少なくともAI作画の躍進が目立ち始めた2022年夏が一つの分水嶺となると思います。これ以前に絵描きだった人とそれ以降ではある種の区分けが存在することになります。以前から活動していたクリエーターで作画AIを取り入れる人は今後増えるでしょうし、逆にこれから参入する人でも作画AIを取り入れない人も受け付けない方もいるでしょう。例え理不尽であっても今後参入する人に対しては何らかの疑いが抱かれるようになっても不思議ありません。

忘れてならないことは作画AIの躍進と時同じくして日本アニメ・マンガの絵柄に感化されたたくさんの海外の絵描きさんが今現在、爆発的に増えているということです。また日本アニメ・マンガの市場は現時点でも拡大していますが、少子高齢化の影響でやがて日本の市場は頭打ちし、縮小する可能性が非常に高いです。

■我々はどこに向かうのか

今後の可能性としては集約が起きるかもしれません。トップクリエーターはより大きな市場で活躍しつつ、ニッチなジャンルの方々は何とか生活圏を保持できるかもしれませんが、多くのクリエーター志望の方々にとってオタク業界という生態圏を維持する金銭的報酬があまりにも足りないという状況になるかもしれません。膨大な数の作品で市場は飽和状態となり、あまりにも競争過多になりかねないのです。どんなに腕があろうとも実入りが悪すぎることから大多数のクリエーターは趣味でしか作品作りを楽しめない世界です。

上記した可能性に関連しますが、クリエーター例外主義の台頭とその例外主義に依存した創作の正当性がこれから幅を利かせるかもしれません。人はみんなそれぞれユニークですが、人によってはユニークさが抜き出ていることがあり、その独自性が商売の道具となりえることがあります。人の生き様とその人のクリエーターとしての頭角は比例するものではありませんが、しかし興味深い人生をたどった人について観客はより関心を感じやすく、とかく逆境を乗り越えた人を賞賛したがる傾向があります。

クリエーターがセレブのような扱いを受ける例は以前からもありましたが、YouTubeなどの配信サイトで多角的な才能を発揮し大きなマス市場の中で活躍し国際的スーパースターとなる例となると過去にはそうそうないとお思います。競争があまりに激しいためにクリエーターはより率先して自らを売り込む必要があります。多言語を駆使してライブ配信で観客を楽しませつつ卓越した創作物を生み出すのはこれまでの絵描きやもの書きには求められていなかった才能の組み合わせですが、現代においては大きな観客を確保するには必要不可欠となりつつあるように思えて仕方ありません。

より楽観的な見立てをすることが許されるならば作画AIの台頭が弱にアナログ的なコンテンツ作りに対する関心を呼び起こすかもしれません。ペンと紙を使った作画や独特な世界観や演出に対する評価がより向上する可能性あります。写真技術が向上し、社会に広まっていく最中、19世紀の絵画の世界はその新技術への半ばアンチテーゼとして印象派を生み、これがやがてモダン抽象画の世界へと繋がりました。印象派と抽象的絵画は芸術の世界を永久に変えた一方、写真や印刷技術の向上はデザインの世界を確信させ、誰でも本を印刷できるような世界を生み出しました。一般市場向けに肖像画を描いていた画家にとって写真は悪い影響を与えたかもしれませんが、絵描きは新しい環境に合わせて適応したのです。

将来、作画AIで作り出した素材を創作物の中に組み込むことは特筆するに値しない当たり前の行為となるかもしれません。この結果、業界はクリエーターに対して非常に高い生産性を求めるような悪い弊害を生む可能性はあります。既に日本のマンガやイラストの世界において担当から原稿が普通ではダメで、密度高くて精巧で傑出していないと困ると過剰になっているという話がちらちらと囁かれる時代となっています。原稿料がそのままか少し下がる一方で、です。過労は大きな問題ですが、作画AIはこの問題を緩和させる可能性がありますが、同時に悪化させる可能性もあります。

■クリエーター業界の未来を再検証する

創作の世界は常に変化します。昔から常に変化し続けています。しかし変化のペースは目まぐるしいレベルとなっており、20世紀に生まれた人間にとっては想像の領域を超えていると感じてしまいます。現状の変化は写真の発明が起こした変革を連想しますが、写真機の技術確認と浸透や徐々に進められたものであり、絵画の世界を脅かすようになるには相当な時間が掛かりました。写真の本当に革命的・革新的事柄が既存の画家に与えた影響は数十年にわたる緩やかな物でした。

一方で作画AIの瞬く間の躍進でイラストの世界の常識が5週間くらいで根本的に変えられたような気分です。これから5年後のアニメ・マンガの世界がどうなっているかを予想するのが不可能に思えるようになりましたが、その時までには作り手・受け手両方にとってより創作物がより豊かであいつつ生活もしやすい均衡に到達することを祈るばかりです。理想的には技術というのはその技術を取り扱う者や市場の中の強者をより有利にするだけではなく、より万人に恩恵をもたらすものであってほしいです。なぜならば想像力の魂と心は人の本来の性質であり、それは広く共有され賞賛されるべきだと思います。

このまま現状の状態が続けば新しい試みや革新的な表現に対する報酬やコミュニティーからの指示が減退するあまり、新規参入者が減るような産業の空洞化を招きかねません。芸術の分野において市場形態があまりにも急激に変化したためにその分野が萎縮し、時間が止まったような状態に陥った例をいくつも思いつくことができます。アニメ・マンガの世界で同じことが起きるような悲劇を避けたいです。

■個人的あとがき

この記事ではなるべく私自身の作画AIに対する感情を切り離しました。かなりの大激動を起こす可能性があるテクノロジーであると思っていますが、なによりもその影響力はより客観的な鳥観図を描くことを心がけました。それでもなお、色々なところで私の主観が混ざっていると思います。

私個人の意見としては作画AIは単なる道具であり、道具自体は色々有効利用できると思っています。「弘法筆を選ばず」と言いますが、想像力のある人や創作について貪欲な人、頭の中で色々な情景を思い浮かべる人であればどんな道具を使ってもけっこう面白い作品を作れると思います。作画AIは人の表現を大きく押し広げることができると思います。

コラージュやアイディア作り、人間の作業の補佐やアイディア集め、画面作り(レイアウトの確認)や色使いの検証において大きな力を発揮できると思います。複数のAIテクノロジーを組み合わせればAIで動くVtuberはかなり楽で編み出せるでしょうし、コンセプトやパラメーターを固めたゲームのコンテンツを自動作成することも可能です。それこそVRやARテクノロジーと組み合わせれば「自分だけの世界作り」が可能となるでしょう。

しかし自分にとって果てしなく居心地の良い空間づくりを際限なく楽しめる世界は同時に他者を受け入れない空間です。

作画AIは利己的な側面が強く、悪用が簡単です。非常に高度な創作事業をたった一人の人のために稼働させることができるということは娯楽や芸術の価値を下げるだけではなく「共同作業の価値」をもすら揺るがしかねません。既存の創作作品のストックをかなりもっている作り手であればそれを元に新しい作品を無限に作ることが不可能ではありません。絵心がない人間が他人の絵で商売するだけではなく、絵心がある人間もしくはたくさんの著作へのアクセスができる事業の怠慢と権力増大を可能し兼ねないテクノロジーだと思います。

コンピューターが瞬時に情報を操作できることでそれまで想定されなかった手続きや情報の悪用によって甚大な被害が発生することがあります。市場を巻き込んだ株価操作や特定の人種を排除しやすいような選挙区の制定など、以前から問題になっていたものの実際に大規模で行うのが困難であった行為もコンピューターとネットのお陰でかなり現実味を帯びており、実際に複数の弊害が発生しています。今回の作画AIもそのような事象をこれから起こす可能性が現実的であると思います。

作画AIに限って言えば読者と作者、作り手と受け手の信頼関係、そして創作のコミュニティーを脅かすような側面があると思います。人気によって栄枯盛衰するヒット作品の作者は世間で注目を集めますが、それよりも大きな影響力を持ち富の集積しやすいのがプラットファームを握る人間です。作画AIは作品作りの手段として考えがちですが、実際には作画AIへのアクセスするユーザーがアクセスする一種のプラットフォームであり、そのプラットフォームが画像掲示板、SNSや配信サイト、コンテンツ販売サイトと密接に連携するのが今後予想できます。これによって創作の道具が創作の管理と規制を内在した新たなる権威とならないことを切に祈ります。

最終的に創作は作者の主体性なくして成り立ちません。たとえ受け手がいなくとも作り手がこんなものを生み出したいという信念があればしっかりとした作品は編み出されます。世間には適当に編み出された作品は多数あります。商業的に成功した作品でもやや中途半端な作品は珍しくありません。子供だまし、穴埋め、点数稼ぎ――様々な理由からAIを活用した作品が生まれ、中には商業的に成功する例も生まれるかもしれません。それでもなお、自らが思い描く物語をできる限り切磋琢磨させたくさんの方々を感動させたい作り手はこれからも続くと思います。あわよくばAIがそんな活動を阻害しないことを祈りたいです。

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Deus ex Art Machina – AI Art and its Wide-scale Implications on Japanese Otaku Art

The three images were made using three AI art generation programs in October, 2022 using prompts such as “beautiful girl, akihabara, night, fox ears, fox tail, white hair, smartphone, black bodysuit, tight bodysuit, baggy jacket, cute face, cityscape, rain, reflective lights, streets.” I did not specify an art style and therefore the output can be considered the default of the three programs.

Summery:

– AI art rapidly developed in 2022 and became a sensation in late summer and early fall in Japan.

– NovelAI stunned the Japanese anime/manga community. The fact that NovelAI and other programs can produce large volumes of illustrations quickly changes how people interact with it and accelerates its evolution.

– Artists in Japan have generally reacted negatively to AI art programs. Some people see potential benefits in terms of productivity, but the inclusion of their art into the datasets without their permission has been attacked.

– Legality and ethical issues are still in flux. As of 2022, AI art programs, datasets, and their output is most likely legal, however certain caveats must be noted. Few mainstream Japanese IP holders have embraced AI-generated art as fan art.

– AI art programs are very power tools that have possess unique qualities that are radically different from anything that existed before. Being very powerful, it can be abused with great effect in ways that we cannot anticipate adequately.

– AI-generated art and the technology behind it will radically change the economic landscape of certain fields in ways that similar to pollution and drastic technological innovation. The concepts of externalities and dumping in economics may prove useful to understand it.

– AI art’s greatest impact will revolve around how artists can allocate time. The competition from AI art programs in terms of speed against human artists is unparalleled and thereby create huge degrees of friction and difficulties for human artists.

– Art may be facing similar historic trends that befell upon other industries where technological innovation brought about huge productivity spike, followed by massive consolidation and consumer choice reduction.

– The unequal impact of AI art programs in terms of both economic and artistic direction. AI art programs may be the singularity that changes the relationship between the creators and the audience.

– Predicting the future based on current circumstances.

– The looming fight over who controls AI art programs and the platforms.

– Artists are not uniform and neither are audiences. The reaction and use of AI art will probably reflect those differences in attitudes.

Some background, or how we got into this mess

The impact of AI art has been weighing heavily in the minds of many creators and their audiences in Japan. Machine learning and their impact on society as been nothing short momentous within the last decade. At first, the people starting taking notice of how machine translation improved significantly to the point where many felt basic human speech could reasonably be interpreted and translated into different languages by computers. AI–Artificial Intelligence–became the buzz word associated with everything from optimal thermostat adjustment all the way up to identifying real life tax evasion. Even in the world of art, computer assistance has been a useful tool in reducing choppy line art and making animation look smoother since at least the year 2000.

But no one expected AI algorithms to become good enough to be able to replicate illustrative artwork.

It took decades before computers could challenge chess players. And yet, in a matter of short months in the summer of 2022, computer rendered art matured so quickly that it is hard for even trained artists to tell the difference between what is created by an AI and what is created by a human being for more and more artwork.

In July of 2022, Midjourney first captivated the Internet with its ability to create highly advanced illustrations without direct human involvement beyond being prompted to produce artwork based on textual descriptions. There had been other AI powered illustration generating systems available, but Midjourney’s emphasis on classical paintings made it stand out. The operator would type in various text descriptions and the AI would try to render an illustration that would match the text prompts. Stable Diffusion followed, and since this AI was open-source as opposed to Midjourney, people were free to produce as much illustration as they wished to create. The first results were rather rudimentary, but with enough prompting and delicate fine-tuning, it was possible to produce stunning computer generated artwork in minutes. Anything similar might take a human artist days or weeks to create.

One of the pivotal moments that galvanized the online art community and the public at large was when a Midjourney AI-generated art won a Colorado State Fair prize in September 2022. The submitter claimed his fine-tuning and detailed readjustments of the AI art should be respected as an artistic endeavor, while many other disagreed with the belief that the substance of the artistic achievement was only made possible through the complex algorithms employed by the computer and the multitude of pre-existing artwork that the AI used as a reference material.

When news that AI-generated art bested human art in Colorado, the fear that computers could replace human artists became a lot more real. But the threat primarily revolved around Western illustrative art, conceptual art design, and photorealistic illustrations. For the most part, the Japanese artistic community felt AI art would be a useful tool that could help with backgrounds and testing color calibration, but their character art was still decidedly within the domain of human creativity.

The Beast that is NovelAI

This assumption was destroyed in early October of 2022 when NovelAI smashed all previous expectations revolving around how AI could convincingly draw human characters in the style of Japanese anime and manga. NovelAI was innovative for its easy of use and the high quality of anime/manga character art, and it could create many illustrations within minutes. NovelAI is a customized version of Stable Diffusion, but was calibrated toward enabling the operator to prompt artwork that draws from the Japanese anime and manga art style as the program incorporated a huge library of illustrations stored on Danbooru, an art depository primarily comprised of illegally uploaded artwork by users around the world. Danbooru is a fairly old image archive and because users can tag various labels to the image (e.g. brunette hair, dark skin, large breasts, thick eyebrows, pointy canine teeth, eyeglasses, sailor suit school girl uniform, night scene, summer, poolside, etc.) it is extraordinarily useful as a dataset of images.

With NovelAI, an operator could pump out dozens and dozens of artwork with a few prompts, and all of the artwork belonged to the operator. Not all of the illustrations created by the AI was picturesque, but sometimes the achieved output that could stand next to art work created by a human being and it would not look out of place.

Properly calibrated, NovelAI could mimic art style of established artists. It would be possible to instruct the program to create a certain character in the art style of an unrelated artist in a specified situation. The results would very, but sometimes the output is convincing enough to fool the casual glance.

Assessing the strengths of AI art

Let me be clear that when we are talking about AI art programs, we are not talking about computer with the capacity to learn, think, and create. In the context of contemporary (2022) computing, AI is shorthand for complex algorithm-led machine learning system created by a programmer and controlled by a human operator, or software capabilities that mimic that mode of operation. Machine learning’s operations is created by a human and executed in accordance to parameters that are specified by people. Unlike AI in science fiction, AI operations do not involve consciousness nor have the capacity for unlimited associative learning, a stimuli memorization and organization methodology that is considered to be essential in higher organisms.

There is no question that AI-generated art cannot replace real artists. A person cannot be replaced by another person, let alone an AI. (At least until humanity has figured out how to fully replicate a person, their mind and body and all, and as it stands, our understanding of the two is pretty shaky at best.)

AI art programs are still very dependent on pre-existing material for a dataset it can work with and it is very difficult to achieve polished results unless you have a specific presentation in mind. It recognizes consistent patterns that are common in certain subjects and breaks down art into elements that can be reconstructed together. While the seamlessness of how this is done is breathtaking, computers cannot come up with original ideas on its own.

However, the parable of infinite monkey theorem (that monkeys hitting keys at random on a typewriter over an infinite amount of time might produce notable literature) does hold with AI-generated illustrations. Because it is so easy for an operator to produce huge libraries of illustrations with AI art programs, and because human being have the capacity to see patterns, symbols and features embedded in seemingly chaotic and random elements in the environment and consequently discern meaning in them (e.g. identifying human faces in wood grain patterns, etc.), it is possible for AI-generated illustration to become the catalyst in creating genuinely innovative artwork.

The ability for machines to produce “new” content that be deciphered and enjoyed by human beings is not particularly novel. People have played games against machines for decades. It’s been possible to randomly generate game levels that players can traverse through. The programming has gotten so good to the point where it is sometimes hard to tell if game level is hand made or created randomly by a machine. Machine language translations of content has gained considerable steam since the mid-2010s. AI tools that help craft original stories involving human interaction has advanced considerably since late-2010s.

What makes AI-generated art so different from what has come before is the illustrative nature of the computer output. Here, computers are not creating strings of text that have to read, but instead they are pumping artwork that can be glanced quickly. People must read text and interpret its meaning. Most people find it difficult to shuffle through reams of text to see which presentation is better than others. But with AI art, it takes very little time to judge if something is pleasing or unattractive. While the accuracy may not be high, most people can examine art much faster than they can read text. So it is easier to people to judge if something is notable or not with artwork, and this is where the fast rate with which computers can produce illustrations is very different from what has come about before.

Artist’s reactions to AI art

We are still at the early stages in the advent of AI-generated art, so it is very difficult to speculate what their impact will be in the realm of human creativity and artistic communities.

In the immediate term, issues of plagiarism, debates over originality, the nature of creatively, ethical treatment of artist, and other topics will dominate discourse on this subject. Some Japanese artists are specifying that they do not want their artwork to be integrated into a dataset that AI art programs use. But as it stands now in October 2022, there are few recourses available to artists to try to stop AI from incorporating their creations. So far, the fair use doctrine in US copyright laws makes AI learning legal, while in Japan, the 2018 copyright law revision included a specific clause that legalized machine learning of copyrighted material.

Numerous artists demanded that their illustrations be removed from Danbooru, the art imageboard that acts as an art repository. But the entire website has already been cloned and available for download. Furthermore, coders have devised computer scripts that can automatically categorize artwork. While Danbooru may go bare, there are numerous other art repositories that can provide valuable datasets for AI art programs, so it is unlikely that restricting the collection of data will be effective at this point.

Many people have found AI-generated distasteful because it effectively feeds off of creative contributions and artistic achievements made by others in the past and is freeloading of their hard work. While this may be distasteful, it is most likely legal. If computers can transform preexisting art to such a degree that it is unrecognizable from what it derived from, then it is doing nothing different from what people do. Logic dictates that if it’s legal for people to do it, then letting people do it via computers should also be legal as well. The issue is not the method, but instead the issue here is with its ease, its scale and its accuracy.

Legality and ethical considerations

As I have already mentioned before, it is possible to produce illustrations that mimic other artists without their involvement. Generally speaking, copyright does not cover an art style in of it self. If I create a paining of the moon landing in the style of Salvador Dali, it is still considered my art work and I can copyright it. Imitating other people’s art has been an integral component in artistic development ever since human beings starting creating art. We imitate, replicate and learn in the process, eventually moving on to create our own art style. The art community assumes that people will evolve in how they express themselves and eventually blossom to be an artist that can create material independently. At the very least, the assumption is that there will be some degree of creativity involved in the process of remixing, imitation, and replication. No human being can reproduce something exactly as how others have done so, but computers can.

The ability of computers to mass-produce huge quantities of artwork in the style of other people poses some serious questions. If someone were to perfectly replicating my art style to the point that audiences could not discern the difference between my art and the imitated art, and if the imitated art was saturating creative platforms and public forums to the point where my own creations becomes completely marginalized, is there rationale for me to file for unfair competition? What if somebody was uploading countless artwork that was a near perfect replica of my art style while advancing a political agenda that I do not agree with? Fair use assumes a certain degree of a level playing field that AI-generated art might be able to disrupt easily and effortlessly.

While forgeries in art have a long history, how AI-generated art might threaten the livelihood and reputation of artists may be better framed in terms of deepfakes and defamation. How this will play out in the future is hard to predict currently, but certain assumption we had regarding the nature of creative arts are being seriously challenged.

For example, it has now become very easy to incorporate someone else’s work-in-progress into an AI art program and finish the artwork before the original creator had a chance to do it. It’s also possible to incorporate other people’s material and mask their contribution. Artists continually evolve and their art style will more than often change over time. But it would be possible to for an AI to imitate an artist’s style and characters from 20 years ago. Even if you could prevent someone from being monetarily compensated from that AI-generated art, some artists may prefer not to see “new” material of their old art flooding the creative communities.

AI-generated art poses unique ethical issues that have yet to be addressed, and this has turned some to abhor their involvement in their communities.

Since many original IP holders like to employ fan art of themselves into their promotional efforts, some of them have designated Twitter hashtags that fans can attach to their uploads to indicate the original IP holder can freely use such fan art. This setup works in an honor system where the uploader is the genuine about what they are uploading. Perhaps because AI-generated art is hard to discern as being creative or not, many Vtubers have started to ask that those who use AI art programs either to clearly label AI-generated artwork, or refrain from uploading AI-generated artwork with the official hashtags all together.

Some art platforms, art commission mediators and marketplaces have started to either restrict or reject all AI-generated art. The reasoning for this relates to how the debate over the nature of creative ownership regarding these illustrations is still in flux, as well as the fact that since it is so easy to produce huge amount of AI generated art in a short amount of time, AI-generated art can easily out-pace what human artists are capable of. I want to touch on this point more later on as the economic implications are immense.

Isn’t AI art tools just another tool? Yes and no.

But before we go any further, we must address the fact it will not be easy to separate AI-generated art from traditional art. Since text prompted AI art is generated by an algorithm, it is conceivably possible to use an AI to see if a particular illustration contains tell-tale signs that it was AI-generated. This maybe possible to a certain degree, but there are many different ways of introducing human elements to an AI-generated artwork to camouflage its origins.

Furthermore, many artists have shown an interest in using AI-generated art as a means to enhance their artwork. For example, while the manga narrative revolves around the principle characters in the foreground, there are instances where having characters in the background is important to the setting. If the manga artist can afford it, they may employ assistants who can draw these incidental characters in the background. While the steps involving creating the layout of the manga panels and narrative flow are integral to the story, much of the background artwork and texturing of numerous graphical elements may not be necessarily intrinsic to the story but still has to be completed. A lot of manga production involves numerous steps that are rather mundane. Consequently, if an artist cannot afford an assistant and do not have time to do it themselves, then they might use copyright free stock images or graphical elements as a substitute. The question then is, would it detract from the art substantially if these mundane steps were conducted by AI instead? After all, many fine art painting are in fact collaborative efforts involving the apprentices working below accomplished artists. Does this make them any less remarkable?

We must also examine the possibility of those would like to illustrate their stories or realize a vision, but cannot for any number of reasons. If an AI can empower someone to produce artwork that could not exist otherwise, is that not validation of its utility?

In my mind, AI-generated art is a tool, but a tool with wide-ranging ramifications. It can be abused but it can also be a lifesaver. It can stifle innovation, but if used appropriately, it can accelerate and enhance creativity. While individual views (micro) regarding AI-generated art and other creative tools are important, I also believe this innovation must be examined from a societal (macro) perspective since its impact is so monumental.

The (possible) societal and economic impact of AI-generated art

In economics, we study how different means of production results in different outcomes. Some means and resources are more efficient than others. For example, using chemical fertilizer will make fields more productive and create larger crop yields, improving the productivity of a given area. But the overuse of fertilizers can result in the overflow of rich nutrients into the runoff that feeds into the local rivers and oceans, eventually adversely impacting the biological balance in the local marine ecology and negatively impacting the fishing industry and all those that are dependent on them. The fisherman and the consumers of fish are suffering from a consequence that resulted from the farmer’s choice.

This type of pollution and its negative impact is one example of an external cost or externality—A cost or consequence that do not directly involve a given economic transaction, but nonetheless impacts others in a tangible way. Individually, these external costs may not amount to much, but when couple together with many others, the externality can have a huge impact that influences people far and near. Driving cars individually causes minimal problems. Millions driving cars cause major problems.

Externalities are not just limited to pollution. It can be argued that the American insistence on utilizing the Imperial system of measurements creates a negative externality to all those who do not use it. Nearly the entire globe uses the metric system, but because America is the single largest economy in the world and its preferences have a huge sway, many standards continue to be demarcated in Imperial units to the frustration of all those who use the metric system.

The use of AI-generation as a means of production will more than likely result in similar externalities. While the operator who uses the AI art tool enjoys a positive boost to their productivity, the widespread employment of AI art tools could create situations where those who do not rely on AI might be under suspicion of using them. And while this following point is more related to the concept of dumping, if massive amount of artwork is flooding the market, then there is a strong chance that creators will have a harder time making a living. If an artwork can be created in a few clicks of a button, why hire artists that have to be paid? Not everybody is an enthusiastic fan of those who create the art as some only care about the product.

It must be stated that this is not a guaranteed outcome. The advent of AI art might result in more attention being placed on the human touch and the demand for human art may increase. However, I do believe that the landscape of the creative industry might change dramatically in the future as AI art’s involvement and advancement will cumulatively bring about major changes in ways that cannot be anticipated right now.

AI art’s greatest impact

As it stands, the single greatest impact of AI-generated art is not about how illustrations can be created by computer algorithms, but instead the greatest impact revolves around the fact that huge amounts of art can be created easily, quickly and anonymously. Artists strive hard to create works that match certain expectations as much as possible, but the greatest obstacle that impedes an artist in their quest to realize their goals is not talent nor skill nor creativity, but instead time. Time is the greatest limiting factor for all creators and I believe AI-generated tools will have a profound negative impact on how artists can allocate time.

Yes, AI tools can make artists more productive, but on the flipside, this also means that expectations against artists to be create elaborate, detailed, and fast will increase. It will be harder for many artists to spend time thinking and trying out different things when other can produce accomplished works much faster if they rely on algorithms.

I am reminded of how advances of technology had pivotal impact on certain economic activities. The invention of photography, records and audio tape, automobiles and motor transport… The list goes on and on.

Each innovation enhanced productivity and helped improve the lives of many. At the same time, each of these resulted in certain external costs that were first not so apparent. Photography resulted in major shifts in the artist profession. The introduction of musical recordings fundamentally altered the relationship between the public and musical presentations. Automobiles changed how people lived their lives and transformed living spaces.

Now AI-generated artwork will change how society and people will interrelate with art.

Historical patterns in technological innovation and marketplace reaction

As a general rule, when the supply of a given service or commodity or product suddenly increases in a given market, either through a particular invention or major transition in how goods and/or services are disseminated, prices will fall and consolidation will take place.

When the supply of shoes in a local market suddenly increases, smaller shoemakers that cannot adapt will close shop while the more competitive manufacturers will expand their business. When photography suddenly becomes common place thanks to an added feature to smart phones, the demand for cameras decreased and the number of camera manufactures diminished.

As competition suddenly increases, there will be a strong pressure for business and purveyors to gravitate toward providing higher value added products and services to keep afloat, or to change their price structure so that they can reorient toward a mass market business model.

When a glut happens, the market will soon be dominated by lower priced products/services. Originally the market may have been comprised by a high-tier, a mid-tier, and a low-tier structure. The lower-tier will become the majority and the mid-tier will increasingly become scarce while the high-tier will aim to specialize and stay above the fray. Later on, the mid-tier elements of the market may come to be appreciated once more, but by that time the market structure has been fundamentally changed to prohibit the variability of a mid-tier service/product provider and the market will be comprised primarily of a lower-tier provider that promises ubiquity at a lower cost yet with bare-bones services/products.

Eventually, the nature of the lower-tier product/service provider will invite a transition whereby the provider will aim to change their business model so that they can simultaneously take advantage of their market dominance and increase their profitability. Since the lower-tier product/service that they already provide has minimal value due to it ubiquity and lack of specialization, there is a strong incentive to either add incremental services with which they can charge higher sums and/or couple their business with a product/service that is more lucrative. In many cases, what was formerly an independently viable business will coalesce to become part of a larger multifaceted industrial enterprise. History abounds with examples of this metamorphosis.

Phone services were originally an independent business endeavor. In many countries, telecoms were public utility enterprises, but then privatization transformed them into become competing agents in the free market, which then lead to technological innovation that invited in market consolidation, and ubiquity of their services resulted in many telecoms to become part of larger IT service providers. It has become harder to simply subscribe to a simple phone service—Business would like you to subscribe to an ISP and/or cable TV service.

Musical performance where the mainstay of public entertainment, and even after the invention of audio recording, live performances were plenty. But with the widespread employment of radio broadcasting and television performances, live musical performances evolved to become a premium service since the market was dominated by lower-tier services/products. Eventually cassette tapes and CD were replaced by Internet streaming and subscription services, whereby musical playback devices where consolidated to be part of smart phones and IoT home entertainment systems.

Will AI art be a game-changer?

This type of consolidation of the product/service is nothing new. However, it is important to keep in mind that art and other cultural products have some numerous qualities that are unique to them. Unlike cars or home appliances, you are not pressured to choose one and negate others. Unlike phone services, the enjoyment one experiences from a particular artist cannot be easily replaced by others.

Even while an AI art program might replicate what I create, and its creations might flood the market with material that is similar to mine, my art is still something that only I can create.

At the same time, the value that is attached to art is subjective. If one person is perfectly happy with the facsimile of my art created by an AI art program, then my involvement in the production of my own art is a mute point. If AI-generated illustrations better gratifies the needs of a particular consumer, then they will find utility in that AI-generated art that goes beyond what other human being provides.

As I stated previously, the single most revolutionary element of AI-generated art is that it can be produced very quickly, and therefore the cost associated with the production of that art is much lesser than of human created art.

Opportunity cost (the cost of choosing A over B) is directly correlated to resources being demanded in securing any given product/service. Buying a yacht is not a cheap endeavor. One must forfeit large sums of money and devote time toward learning how to sail one and be willing to incur the costs associated with maintaining a yacht. Paying an artist to produce specific piece of art also incurs a considerable cost, because you are tying that person down toward creating something just for you.

On the other hand the opportunity cost involved in AI-generated content is miniscule.

There may be instances where the funds you have available in a particular creative project may be so limited that it precludes the possibility of hiring a team of professional creators. But as AI-generated illustrative content can be made available at the fraction of the cost, projects that may have been unrealistic in the past will now become viable.

The predictable end result is that the total amount of creative content that is available in the marketplace will probably increase exponentially, while at the same the value that is attached to that said content may diminish considerably, especially in certain fields.

Since AIs can be fine-tuned to reproduce an artist’s art style, the value attached to that art style may, in certain cases, go down. However, this is not a guaranteed result. The desirability of particular piece of entertainment is entirely subjective. Some may ascribe a higher value than others over a given product, and if more people enter the marketplace as consumers, then the value attached to a particular creative property may rise. Be that is may be the case, it is important to realize that the power of mass produced art will most likely inflict external costs in the form of oversaturation of the marketplace. What used to be marketable simply because it was refined and accomplished may lose is luster when the creative marketplace is flooded with similarly polished content.

“You want fries with that anime waifu?”

We may enter an age of “fast art” similar to fast food. The demand for traditional restaurants will never disappear, but what used to be an average, mundane offering as become elevated to being a high end cuisine in some circumstances. Audiences previously could previously directly experience live classical and band music for modest prices. Now most of the public have to satisfy themselves with recordings while concerts are aimed toward the connoisseurs who are willing to pay a premium to enjoy live performances.

There is no doubt that the introduction of AI-generated art will create opportunities that we cannot easily predict at the moment. However, it is equal clear that, if AI-generated art becomes pervasive, which is still a big if, then it will result in externalities that will impact artists, especially for those who will enter into the marketplace in the future.

At the very least, a demarcation will exist for those artists who had been active prior to the summer of 2022 with those who started become active after AI-generated art become widely available. Some artist who were active prior to this date may incorporate AI art tools in the future, while same artists that enter into the creative scene after this date might reject AI art tools. Nevertheless, I suspect that a certain degree of suspicion may be cast upon artists who recently jumped into the creative community, however unfair that may be..

We must also keep in mind that the introduction of AI-generated illustrations is taking place just when huge numbers of non-Japanese people are increasing entering into the creative landscape. Also, while the non-Japanese market for manga and anime continues to grow, the Japanese market is predicted to plateau and possibly start to shrink due to demographics within Japan.

Where are we going?

One possible outcome is that consolidation will take place, where those on the very top will thrive in an ever larger market, and those who specialize in niche subjects will be able to carve out an exclusive living space for themselves, but for many aspiring professionals, the creative ecosystem will be chronically short on financial sustainability due to oversaturation and an hyper-competitive landscape. The vast majority of artist may have to resort to being amateur hobbyists, not because they are unaccomplished, but simply because it is too difficult to sustain oneself financially as an artist.

Another related possibility is for the rise of artist exceptionalism and how that might be tied to artistic validity. Everybody is unique, but some are more unique than others, and in some cases, that uniqueness will translate into marketability. The remarkable life stories of individuals does not precipitate that their artistic achievement are more notable than others, but it does make for griping stories and audiences tend to find tales involving people who overcame adversity to be quite worthwhile.

Celebrity status of artists and creators is nothing new, but how some artists promote themselves on YouTube and other streaming platforms, sometimes capitalizing on their multitalented expressive facets, have facilitated at new degree of international mass-market stardom that one struggles to find parallels of in the past. Because the competition is so fierce, creators must self-promote themselves much more aggressively than before. Being multilingual, having the ability to entertain audiences in a live setting, and to be accomplished in artistic and/ or entertainment abilities that go beyond the traditional confines of illustrative arts and authors seems to have become standard means necessary to secure an larger audience.

On a more optimistic note, the entry to AI art programs might re-kindle interest toward traditional media (pen and paper) and place a higher value on world-building, storytelling, and narrative variation. The introduction of photography heavily influenced the artistic and commercial painting community in the 19th century. Impressionism and abstractionism transformed the art community forever, while technological advances allowed graphical design to innovate and democratized publishing. Photography may have had a negative impact on painters that focused solely on portraits for the mass market, but painters and creators learned to adapt to the changing environment.

It is plausible that incorporating AI-generated art assets will become mundane within the art production world. This can have negative consequences in that people may expect artists to be hyper-productive. As it stands, many Japanese manga and generalist artists already complain about how readers and editors expect their output to be not just passable and functional but must be dense, intricate and stellar, even while their pay stays the same or is even less then before. Overworking is a major issue and AI art programs can both alleviate this or contribute to this problem.

Reassessing our future

Creative industries always go through transition. This is nothing new. But the pace at which the creative landscape is transforming has become simply breathtaking and almost incomprehensible for those who were born in the 20th century. I am reminded of how photography fundamentally altered the visual medium of human expression, but it is important to keep in mind that photography’s encroachment into the domain of classical painting was incremental and gradual. The true nature of the revolutionary and innovative aspects of photography and how it impacted traditional painters unfolded over the course of many decades.

But here we are, watching how AI-generated art is completely rewriting rules over the course of what seems like 5 weeks. It has now become impossibly hard to predict what will become of anime and manga in the next 5 months, but I hope a new equilibrium will come into being that will empower and enhance the lives of all artists and their audiences. Ideally, we want technology to benefit not only those who enjoy advantages due to their tech acumen or market dominance, but everybody, for the heart and soul of creativity is a human trait that should be shared and cherished by many.

If the current situation is left unchecked, we may have a massive hallowing-out effect take place where the financial rewards and community recognition of new, innovative art diminished to the point where new participants would be discouraged. I can think of numerous examples in the arts where market conditions changed so rapidly that the field atrophied and became frozen in time. It would be very saddening if the same fate awaits for manga and anime.

My own personal postscript

I tried my best to let my emotions at bay as I wrote this piece regarding AI-generated art. I feel this technology has the capacity to bring about monumental change, so I wanted to focus on trying to get a bird’s eye view of the impact AI-generated art might have. Regardless, I am certain my own personal sentiments intermixed with what I presented.

My personal opinion is that AI art programs are nothing more than a too, and it can be used for numerous beneficial ends. As the saying goes, “a bad workman always blames his tools.” It is my belief that anyone with rich imagination, who is passionate about his/her creations, or can envision different scenes within his/her mind can create interesting works regardless of the tools that are available. I feel AI art programs have the capacity to vastly widen the range of what people can create.

AI art programs can make itself very useful in making collages and helping artists come up with new ideas, they can assist creators in different supplementary roles, and help them gather ideas, as well as simplify layout checking and color calibration. If you combine multiple AI programs, it should be easy to come up with an AI Vtuber. It would also be possible to come up with a game with predetermined concept and parameters that continually creates new content for the player to enjoy. If you combine these elements with VR and AR (augmented reality) technology,, it should even be possible to build a world all your own.

But a world that prioritizes comfort for yourself above everything else is a world that rejects the presence of others.

Art AI programs have a strong degree self-serving elements to it and it’s easy to abuse its power. Using its powers to enable a single individual to create extremely complex artistic creations not only has the capacity to decrease the value of entertainment and artistic creations, but also may threaten the worth attached collaborative efforts. Any party with large stocks of previous creations at their disposal will have the ability to endlessly create new works using that dataset they have access to. I believe AI art programs can not only enable people without artistic acumen to make money off of other people’s artistic efforts, but the technology it represents has the potential to amplify the laziness and consolidation of power of those who have access to large bodies of works under their command.

The power of computers to process huge amounts of information in blinding fast speed can bring about huge consequences by engaging in activities that no one predicted in the past and/or abusing the information it provides. Stock price manipulation and the marginalization of certain racial groups’ voting strength through gerrymandering have been problems that have been around prior to the rise of computers, but executing those operations on a wide-scale was previously prohibitive difficult, but that is no longer the case and real life harm has come about as a result of this technological advancement. It would be naïve to believe that would not come about from the rise of AI-generated art.

With regards to AI art programs, I am inclined to believe there are aspects to it that can threaten the trust between creators and their audiences, and amplify discord within artistic communities. While the public is captivated by the rise and fall of famous creators and popular franchises, those parties that control the means of distribution and exchange (platforms) wield far more power and accumulate larger fortunes. While most think of AI art programs as a means of creating illustrations, in fact it is a type of platform where users must access the program to create output, and it would be easy to envision a world in the future where an AI art program’s functionality would be intertwined with art posting/ archiving sites, social networking services and streaming sites, as well as content retailer storefronts. I hope this will not create a situation where a tool that was invented to help people create in fact become a new hegemon that controls and restricts creations.

In the end, a creation cannot come about without the active efforts on the part of the creator. Even when there are no audiences there, an accomplished creative work can come into being through the firm determination on the part of the creator. The world is full of works that are nothing more than cheap hacks. Even commercially successful titles may be in fact be sloppy, half-finished creations. The desire to create something that will satisfy immature audiences, to come up with something that will fill patch a gap in that arose, to simply create something to fulfill a quota—these motivations might drive a party to employ an AI to create content, and in certain case, that content might prove to be commercial success. Nevertheless, I am convinced creators who tirelessly polish their stories to their best of abilities so that they aim to enthrall wider audiences will continue in take to the stage in future. It is my sincere wish that AIs will not hinder such efforts in any way.

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Old review: Pasoket (1993/8/22)

PASOKET (Aug. 22nd, 1993 at the Harumi International Exhibition Center)

[This article was originally published in 1998 as an entry inside Doujinshi: The Alternative Publishing Medium of Japan. The content of this article was revised prior to being reprinted in this blog.]

              I had the lucky fortune of visiting Pasoket, a doujinshi computer software marketplace after visiting Wonder Festival.  Pasoket combines the word pasokon (personal computer) with Comiket (Comic Market) to indicate that it is a doujinshi marketplace for personal computer enthusiasts.  Pasoket was much smaller than the Comic Market at perhaps 50 circles (publisher groups) participating and possibly about 500 people attending.  Pasoket was very comfortably held in one of the smallest buildings in Harumi.  Still, Pasoket was fun and lively.  Admission to Pasoket requires you to buy their exhibition guidebook. As I borrowed a guidebook from a friend, I can’t say how much it was.

              The set up was fairly simple.  People who come up with original software at home make a whole bunch of duplicates on floppy disks and come to Pasoket to sell them to those visiting the event.  Much of the packaging suggests most of the software contains erotic images, but as I did not go through all the circles carefully, please my observation with a grain of salt. The variety of doujins available was quite limited compared to Comiket Market but I did not mind.  After all, Comiket itself started from very humble beginnings.  Unfortunately, I do not own any common PC system (e.g. NEC PC-8800/9800, Sharp X68000 or X-1, MSX systems, Fujitsu FM series system are the most common systems right now) buying the software did no good for me.  There might have been some MAC and IBM compatible software there, but I didn’t see any.  Luckily for me some groups were selling books too.

              It appeared to me that many, if not most, of the books there actually were the overstocks carried through from Comic Market last week.  Most of the books were either companion books to the erotic software packages and/or spin off stories utilizing the characters featured in the games itself.  There was considerable diversity in the game formats.  Some were fairly simple: Collections of computer graphics illustrations and custom icons for you PC.  Others were much more elaborate: War game simulation systems, adventure games, adventure games, and shooter games.  Most were in the middle: Jigsaw puzzle games, Tetris type games, and other types of simple puzzle games were prevalent.

              Since I could not play the games on offer, I cannot really say how the two match up against each other.  Judging from looking at the sample CG images featured in numerous Japanese erotic computer software review magazines, I would venture to say that the commercial ones have better graphics and more elaborate game functions compared to that of non-commercial ones, but I would be careful with that generalization.  You never know.  What you see in the magazines are only samples of a small number of products representing only a small portion of all that are in existence.

              Unfortunately, the repercussions left behind by Black February [1991 police crackdown on doujinshi selling commercial bookstores] were apparent here too.  As suppression of anime/manga erotica accelerated, the Japanese police force went after the commercial adult software manufactures as well.  This sent many amateur erotic software makers into disarray and the result was massive self-censorship among both commercial and non-commercial erotic software.  I do not know in detail what was the extent of the self-censorship over the content of games at this time, except one small but very important detail in the graphics.  Many ceased to render details of the pubic area.  Some say there are special software codes that permit the censored areas to become “uncensored”. [Later, the Japanese police would go after software programmers that enabled images to be pixilated and unpixilated.]

              Something that surprised me about Pasoket was the fact that there were a fairly large number of young women there.  Interestingly enough, it seemed that a good portion of them were there on the behalf of the individual software makers, possibly attempting to boost sales by enticing buyers, most of were male.  Dressed in fancy intricate clothing (for the most part the emphasis was on trying to be cute and adorable as opposed to daring and revealing) they were calling out to the shy attendees that were passing by their tables.  I had the chance to observe some of the girls making purchases as well.  I even witnessed a few who claimed they were selling stuff they had developed.  It was strange to see such an influx of women into the field of personal computing, which has been until recently considered to be with the domain of introverted young men.  It seems that the availability of the technology is contributing to the erosion of this stereotype.

              Hopefully I will be more knowledgeable about computers and learn more about Japanese domestic computers before I go to another Pasoket.

[Postscript: By the time Windows 95 was introduced, native Japanese personal computer standards started to fall by the wayside and the IBM or Mac compatible systems quickly gained dominance. Pasoket and other doujinshi software marketplaces eventually disappeared as many doujinshi software circles distributed their software via online platforms. As far as I know, Pasoket itself continued on until 2005. (Pasoket web archive link here.) Please note that while doujin software marketplaces have largely disappeared, many larger doujinshi marketplaces continue to feature numerous doujin software circles. Generally speaking, doujinshi marketplaces accommodate those who wish to sell software along with printed media.]

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The Closing of Toranoana in Akihabara

Toranoana is a retailer in Japan famous for being a doujinshi consignment shop, but they also sell regular commercial publications as well as provide a crowdfunding platform called Fantia.

Toranoana’s main store in Akihabara has been a fixture of otaku culture in Japan for many years. But as of Sept. 1st, 2022, that massive store is gone. https://news.toranoana.jp/notification/215167

Toranoana is shutting down almost all its stores. While Tora’s online sales & subscription membership platform is booming, their in-store sales have been stagnant. International visitors will have a harder time making purchases in Japan when they visit, but different options are available. (Having the books sent to their home country, or picking up deliveries at the remaining store at Ikebukuro should still be an option.)

While this is not a doomsday scenario, I believe this is pretty bad news for niche doujinshi doujinshis and commercial books alike. The problem with mail order is that people tend to make fewer discoveries when ordering via the Internet compared to when one is actually walking around a physical store.

I believe Toranoana will be successful into the foreseeable future, but it is heartbreaking to see something so familiar to be gone.

Most otakus of my generation born in the 1970s in Japan should have pretty good recollection of who regular bookstores where shutdown by the police for selling doujinshi. Thanks to the serial killer Tsutomu Miyazaki and the media attention that followed, otakus were treated like dirt, subhuman garbage that didn’t deserve to walk to this earth in the eyes of many. Otakus internalized that disparagement and loathing with self-deprecating humor. We had lots of books aimed for us and carved out spaces for ourselves at doujinshi marketplaces. We knew we were legion, but we had no where to go.

And then in the mid 1990s, stores and services stared to show up for us in Japan. We found a permanent home at Akihabara. We could be ourselves and do business. We felt were valid finally.

Toranoana, Messe Sanoh, K Books, Sangatsu Usagi, Melonbooks all showed that we could be viable. Not only that. They helped make us needed and attractive. Akiharabara, Otome Road (Ikebukuro), and Nihonbashi (Osaka) were places we could flock to and flourish in.

And the tourists flocked to there as well. We were overjoyed. Not only because we saw people from overseas wanting our otaku subculture stuff, but because many of us felt we proved all those bureaucrats and academics wrong. We could make Japan interesting and noteworthy without fancy high culture. We didn’t need to censor the sexually charged material that was on offer for both men and women. We could all be who we wanted to be. We felt we were valid for who we were and are.

Now the Japanese government, bureaucrats, and academics are bending over backward for to accommodate Japanese otaku culture. One of the foremost otaku manga authors has even been elected into the Diet, Japanese national legislative assembly. Nevertheless, as shown with the example of Toranoana’s closing of many physical stores, the industry and wider otaku community is hurting because of demographics, macroeconomic forces and bad decision making regarding tourism. Toranoana’s Akiba store closing signifies a major challenge to this community.

Many familiar stores and sights that are part of the otaku culture is still here in Japan, but it is scary to see how it is being chipped away, little by little. Only time will tell if the Japanese doujinshi community can successfully overcome the huge challenges that we face today. I truly hope so.

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『マンガ英訳の作法』(C100暫定版)

2022年8月に記念すべき第100回コミックマーケットが開催されました。に際して翻訳についての本を発行しました。恐れながら兼光は商業翻訳家として30年以上活動続けてきました。主にアニメとマンガの和英翻訳が多かったのですが、マンガについて簡潔ながら一冊の小冊子に基礎的な方法論と課題についてまとめました。これから翻訳したい人も自分の作品を他人に翻訳を依頼したい人にも少しでも役立てることができれば幸いです。またこの本はマンガ英訳に焦点を当てていますが、一般論としては動画やアニメ翻訳にも当てはまるところが多いと思います。小説・ゲームについてはより参考になるかもしれません。

書籍版と電子書籍版の両方をとらのあな様にて委託販売しております。
書籍版:
https://ecs.toranoana.jp/tora/ec/item/040031006010
電子書籍版:
https://ecs.toranoana.jp/tora_d/digi/item/042000040772

商業作品だけではなく同人誌にとっても英訳は武器になりえると思っています。同人誌は自らの創作性を共有する素晴らしい手段です。『マンガ英訳の作法』でも触れましたが、海外に感性に歩み寄るのも良いけど自分の感性に歩み寄りやすい翻訳も可能だと思います。ただ闇雲な直訳の追及は逆効果になることもあります。今回いくつかの手法を提示したのでご興味あったら見てください。

以前にも言及したことがあると思いますがニッチなジャンルでも英語併記にする事で市場が一気に広がります。個々の国では小さな市場でも、組み合わせるバカにできません。英語が公用語ではない国でも英語はがんばれば読めるという人は非常に多い。そんな方々向けにあなたの趣味の世界を共有しましょう。そんな試みに少しでも貢献できればうれしいです。

皆さんからご意見・ご要望あれば続刊を考えてみたいです。今回の新刊で高評価を得られれば友人知人のマンガをサンプルに新規で翻訳して色々な翻訳例を並べるのも考えたいですね。もちろんやるとすればそんな試みに前向きなマンガ家友人知人と一緒にやりたいのですが。

なお、いつできるか現段階では検討つかないのですがいずれ大幅に増補改訂版をやるにしても今回の冊子はマンガ翻訳の骨子を要約し簡潔にまとめた一冊としての役割を果たせるのではないかと思いたいです。おこがましいかもしれませんが、最初は分厚い教科書よりは入門書というか全体像を掴めるのもそれはそれで役割があるのではないでしょうか。

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How to Translate Japanese Manga in English (Japanese publication)

As Comic Market celebrated its 100th occasion this past summer (yes, I know C98 was cancelled in 2020, but Comiket has held multiple special sessions in the past, so C100 is actually an undercount), I decided to publish a doujinshi on translation. How to Translate Japanese Manga into English is a book aimed toward Japanese creators who want to either translate or would like to have others translate their works.

I have been a professional translator for over 30 years, so I wanted to help share that knowledge with others who may want to release their work for English audiences. This book deals with topics like ascertaining the strengths and weaknesses of the original work, understanding readership demographics and their characteristics, what are the limitations in non-Japanese translators dealing with Japanese subject matter, what are the different approaches toward translation (e.g. aiming the translation to be easily relatable for non-Japanese readers vs. constructing the translation in such a way that non-Japanese readers can learn about Japanese culture and the authors’ sensitives in the most accessible way possible), and much much more.

This book was written in Japanese and aimed toward Japanese readers, but if you are interested, the book is available for purchase at Toranoana.
Book version:
https://ecs.toranoana.jp/tora/ec/item/040031006010
E-book version
https://ecs.toranoana.jp/tora_d/digi/item/042000040772

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Youth and Idealization/Agency in Anime and Manga

Why are the main characters in anime and manga almost always young? This is a question that is commonly brought up among many overseas fans of anime and manga.

This is actually a trick question–If you look at the wide breadth of material from Japan, it won’t take for you to notice that there is actually a huge amount of material that revolves around characters that are adults. But the perception that anime and manga revolves around youth is something that needs to be examined carefully, as this is an enduring stereotype.

It is my belief that many in the West have a hard time appreciating and understanding the Japanese preoccupation with school day youth in fiction. While it may not dominate the media landscape as some would believe, the fixation is there and it is widespread.

I was born and raised in Japan. I only went to Japanese public school for three years but I lived in Japan through-out the 1970s to the 1980s. I have many Japanese friends and I spent a lot of time with them. I would like to think that I have a relatively good understanding of the cultural attitudes that are shared by many in Japan.

As such, I would argue that, for many Japanese people, life during the youth school days hold a uniqueness spot—One unrivaled as one full of potential and agency.

This isn’t to say there are other aspects involved here, but for many of us in Japan, people romanticize life between grades 7~12 as days when you have more agency over yourself than any other stage in your life, or the potential to have agency seems more pronounced.

Japan is a society where social pressures are very powerful. Conformity and peer pressure can be very oppressive. It is a lot hard to imagine how an adult person my cast aside their family and society obligations to pursue something extraordinary. This is the case in school as well, but youthful transgression allows many to fantasize about how they might do thing differently if they were given the opportunity. Many feel their lives are severely constrained but people romanticize about the school days as when you “could” break from the system due to your youth.

The (Western) ideal of an independent, self-sufficient individual is not unknown in Japan. But for many Japanese, we are constantly reminded of our affiliation with various different organizations (employment) or roles (gender, parental, etc.)

Let us assume there was a Japanese anime revolving around a giant robot show with Japanese characters set in contemporary Japan. If the main character is a professional pilot, then we tend to ascribe the worth of the individual based on their affiliation with the professional career, not on their personal merits. The personal merits are important, as those are the things that allowed the person to hold the position he or she holds, but trust worthiness and social reputation is usually closely associate with the successes that come about from teamwork and working within the system.

Let’s now make the main character be a young male or female, and then their ability to pilot the giant robot seems more special, more unique to their own personal attributes. It also makes it easier to have a story where the main character is in a moral dilemma. A mature, professional pilot facing a difficult moral situation is certainly worthy to be a good story, to be sure, but some in Japan would find it too realistic and the sense of wonder would be diminished. It’s harder for many Japanese to entertain the idea of a mature, righteous person fighting the system.

This is not to say there are no stories like that–I can think of many many anime and manga titles that revolve around mature characters fighting the system. But many of these anime and manga titles rarely see the time of day outside of Japan.

Therefore, I would have to counter the argument that “anime and manga only features young, cute characters” needs to be qualified much better. Yes, anime and manga does feature a lot of adolescents, but that’s more about which titles are being translated and released overseas.

Finally, I would also like to note that the Japanese perception regarding youth and agency is culturally rooted, but does not preclude enjoyment from mature, independent minded characters–A lot of Hollywood movies with more mature character are popular in Japan.

Many Western narratives hold a unique position within the hearts and minds of the Japanese audience, in my humble opinion. Because the stories and characters are grounded in localities outside of Japan, audiences do not project as strong Japanese social expectations upon them.

It may seem strange for some Westerners that the Japanese have different sets of expectations regarding agency, self-determination and moral guidelines. But this is not something uniquely Japanese. People’s expectations and perceptions are dependent on the setting/actors involved.

Talking about expectations, value systems, morality, and “individuality” is very interesting but needs to be reserved for a different occasion. It would nice if I can find the chance to take up that subject in a later blog entry.

(This blog is based on a thread of observations and analysis I conducted on Twitter in Janurary of 2022.)

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Translation and Human Learning

No one is born with the ability to appreciate memes nor speak masterfully. It’s all learned. If it is learned, it means it can be shared to others at a later time.

To be sure, cultural context and shared knowledge has a huge impact on the efficiency of the translation. It’s difficult to translate words and concepts related to computers if the target audience has had no or little contact with computers. But the words and concepts can still be translated and shared, if the audience is willing to understand and learn.

A translation might be clumsy, it might not always be snappy. But I believe anything that is learned can be translated and shared to audiences beyond the original target group.

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