Author Archives: dankanemitsu

AI翻訳について思うこと

翻訳を使っていない人間がそれについて言及するのはおこがましいと思ってちょっと好きな作品の翻訳をAIに任せたのだけど、出てきたのがぜんぜん使えなかった。意味が違う、面白みがないのは仕方ないとして、文章としては自然で整っているから返って危険なんですよ。正しいって人を騙しやすいから。 ここでいう正しいとは「文章が自然体で正しい文章に見える」のことです。中身は歪曲されていたら、欠落あったり、明らかな誤訳だったりしても普通に読める文章だと人を騙しやすいのです。 日本ではあまり話題になっていない気がするけど、機械翻訳・AI翻訳を作品として共有することについて北米ではかなり政治的な議論になっていて正直、地雷原の中を歩くようなものだと思ってる。もちろん翻訳家が新たな競争相手を嫌っているからこう書いていると思われても仕方ないのだけど…… 夏の講演でも多少触れたけど、AI翻訳に限らず生成AIは人の雇用の機会を奪い、大企業による個人の創作ノウハウの搾取であるという議論が北米では最近持ち上がってる。ヨーロッパでも議論になっているがとかくアメリカでは激論が始まってる。ハリウッドでのストの一部になってる。 アメリカだと左派の人が雇用の消失・人的資源の無断転用を人権問題としてとらえ、大企業への反発ということも相まってかなり強い反対運動へと繋がってる側面がる。逆に一部の右翼は「機械翻訳の方がリベラリズムに染まっていない翻訳だから望ましい」「エリートの支配に対抗する道具」とも見てる。 左派でも右派でも考え方は色々あるので生成AIやAI翻訳についてまとまっているとは考えない方が良いけど、人権問題・企業搾取・テクノロジーの民主化・個人の尊厳の議論など密接に絡まっている側面がアメリカにはあると思う。 でも日本では「人手が足りないから」「面白いから」「翻訳の質を向上させるから」とスナック感覚でAI翻訳を持ち出す人が結構いるけど兼光は同意しにくい。他にどうしようもないからAI翻訳を使うとしてもそうすることで作品の商品価値を大きく損ねる要素の方が大きいと個人的には思っている。 実際、AI翻訳や機械翻訳がここまで台頭する前の段階でも「アニメ・マンガが好きだからロハでもいいので翻訳したい」という若いファンによる無断翻訳をバンバンやってた(そして今もやってる)。商業会社が売り上げが芳しくないからネットで流れている無断翻訳の可能性を持ち出したらもう大炎上…… なので翻訳AIはファンがやってきたことをAIがやっているだけという側面がなくもない。きちんとした翻訳として不特定多数に発信するなら最終的に人がチェックしなければならない。その手間を考えるとAI翻訳にはプラス面がかなり薄い。すくなくとも地雷原を歩むのを上回るメリットがあるとは思えない。 講演会で言ったけど、医者の診察受けるときにそのお医者さんが同時に4人の患者を診ていたらどう思うだろうか?患者としてはお医者さんにきちんと見て欲しいと思う。実際にはAIを織り込んで大量に処理する方が効率は良いかもしれない。でも患者としてそれは怖いと感じるわけです。 この先、人との対話で成り立っている物事にAIを絡めると面倒が多い。AI翻訳が道具ではなく手段となってしまうと二流・まがい物と思われかねない。AI翻訳であることを告知すれば安っぽい翻訳とユーザーに感じられ、翻訳にAIが携わっていないということを隠せば隠ぺい・欺瞞と囚われかねない。 翻訳家としては認めなくないけど、使い方によってはAI翻訳でもかなり勝負できるジャンルや使い方については自分なりの方向性が見えています。でもそれは生成AIの政治性を完全に度外視したうえでの議論であり、現実にはその簡単にできないと思ってる。 味が同じでも誰がどんな場所で調理したかで料理の値段が変わるように、翻訳もだれがどういう工程を経て翻訳したかと言うのが大きなポイントになると思ってる。それを考えずに気軽に海外向けでAI翻訳をを商業ベースで活用することは商品価値を下げる兼ねないのではないのだろかと思っています。 あと他にもAI翻訳などは後続を育てるのに大きな阻害要素になること。既にプロレベルの人はキャリアを武器にすること出来るけど、まだキャリアがない人にとってAI翻訳は技能を伸ばす機会を減らし、裾野を狭める。 一部の突出した才能を持った人間はこれからも翻訳に参入するでしょうけど、全体としてはキャリアを積み重ねるのにマイナスしかない。 本当に翻訳だけじゃなくて生成AIが関わる分野すべてにおいて人が技を磨く機会を得ること事態が大変になりかねない。 人によっては「下訳ならAIでも」と言う人もいますがわたしにとっては下訳を確認する作業が手間です。原語と訳文をいちいち読み返してチェック・訂正するのがものすごくストレスです。最初から全部やった方が速いです。また機械翻訳は個性豊かなキャラを作れないのが多きな問題です。全部が普通の文章になってしまう。それでは人に刺さりません。

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日本コンテンツと海外プラットフォーム

最近の作成AIコンテンツや物語性を含まない居心地の良いコンテンツ作りを見ていて憂慮するすることは色々ある。 ネットでただで享受できるコンテンツが爆発的に増えただけならいざ知らず、それらを配布するプラットフォームが一点集中し、興行的成功の落差が激しくなっている。これに加えて作成AIを用いることで一見精度の高そうに見える創作物を大量の生み出され、いわばダンピングが行われてしまい、人の手で創る創作活動が押されている側面は否定できないと思う。 またどんなコンテンツも大手国際プラットフォームの論理や営利主軸に左右されるような状況になっていることに対する危機感はどれだけ共有できているのだろうか。 私のような昭和45年(1970年)前後に生まれた日本人のオタクにとってちょうどマンガ・アニメ・ゲーム・模型・TV・ラジオ・小説・雑誌がかなり豊かな土壌だったように思えて仕方ない。流行り廃りはあるも、いろいろな作品が並列して存在し、国内海外の多様な作品や題材を礎にして同人誌即売会や草根のBBS、初期のWWWで色々な文化を作ることができた。いま思うと今取り沙汰されている日本のサブカルの相当な要素があの時代に爆発的に発展したと思ってる。 今も日本のサブカル文化は活発だし、新しい表現がどんどん増えている。でも当時に比べると単純な創作行為で生活を維持したり、製作コストを回収するのがかなり難しくなってしまった。20年前の雑誌とかみると信じられないほどマニアックな商業誌やソフトがあり、それこそ同人誌や同人ソフトになると当時の多様性と経済的熱量は眩暈するようなすごさがあった。繰り返すが今もその流れは途切れていない。YouTubeやニコニコ動画でも熱心に続けている人は少なくない。 しかしながら団塊ジュニアという数の論理がプラスで働き、相当活発な市場が形成・維持されていたのはないだろうか。もちろん当時でもお金を落としたくない人はそれこそ海賊版同人誌を買ったり、ネットから「割れ」(違法にアップロードされて、権利者の許可なく使用するソフトのネット用語)をダウンロードしたりしていたが、同時に正規で買い支える層がそれなりにあったので業界全体としては帳尻あわせある程度設立していたと言っても過言ではないと思っている。 しかし現在はコンテンツもどんどん細分化し、これまで有償でコンテンツをもっとも買い支える中間層が疲弊し、物語や作家性を支える意欲も購買層も減退したのではないかと錯覚することがある。皮肉なことにこれは世界最大のアニメ・マンガ・ゲームの市場である日本国内で起きてる話であり、海外の方がまだ伸びしろがあるように思える。(私個人の主観でしかないが、実際に翻訳の仕事をしている身としては英和よりも和英が圧倒的に多いのは事実である。) 理由は簡単で人口動向と経済的に日本が伸び悩んでいる一方で、海外では日本コンテンツを支える人間が増え、さらに経済的にも日本よりもやや上向いているのが大きな要因ではないだろか。 1970年代と1980年代、日本は電子立国と世界中で知られて羨望の的であった。いま振り返れば実際には色々な歪な産業形態であったことは自明だが、一つ確実に言えることはIT系において主導権を失われていくことに対して危機感が足りなかったことは言える。それぞれの企業が自らの立ち位置を守るために雇用削減で就職氷河期を生み出し、円高忌避で海外に工場移転させ、その後も正規社員を増やしたくないために非正規雇用形態を促進させてしまった。 気付けば日本のIT企業は再び海外の下請けという状況へとなった側面があるのではないだろうか。がんばっている会社やプロジェクトはあるだろう。しかし独自アーキテクチャ、独自市場、独自価値観を打ち出せない業種は国際競争の前に淘汰されやすいのは否めない。 今、日本のマンガ・アニメ・ゲームなどのオタクコンテンツの市場規模は国内では伸び悩み、海外の方が伸びしろがある。しかしここでまた海外プラットフォームに依存してしまうとバブル期の日本電子産業の二の舞になりかねないように思えて怖い。現時点では魅力的なコンテンツをたくさん生み出しているのだから、それをテコにして作品発表プラットフォームや日本の創作を可能としている表現の自由をさらに推し進め、海外のクリエーターが日本で創作することがもっとも都合よいというところまでたどり着けないといけないと思っている。 日本は際限なく成長できる市場である必要はないが多種多様な創作者の揺りかごにはなれる。揺りかごで切磋琢磨し、生み出された作品を世界に発信して、それが日本を少しでも豊かにするのは決して非現実的ではないと確信している。日本に強い魅力を感じている方々がまだいる現時点おいてはこれは実現可能な活路ではないだろうか。しかしこの活路はほおっておけばやがて閉じる可能性が高いことを我々は忘れてはならないと思っている。

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Different Expectations on Fiction and Free Speech

As the Japanese cute girl anime/manga art style becomes evermore popular overseas, I feel a major cultural clash is unfolding. Anime, manga, and video games from Japan were still a novelty in the 90s in North America in many ways. … Continue reading

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Moving from the Commercial vs Doujin Dichotomy to the Open-area Public vs Closed-space Private Spectrum

I wrote a lengthy discourse on the nature of doujinshis in 2013.“Reexamining the role of Doujishi in 2013” (Japanese only)10 years have passed by since then. In the past, it was fairly easy to divide the world of Japanese manga, … Continue reading

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「商業vs同人」から「開かれた公的表現vs閉ざされた私的表現」へ

以前、同人誌とはなんだろうかという問いを2013年に発表した。2013年――同人誌の再定義あれから10年が経った。 これまで商業誌と同人誌という区分けで日本のマンガ・アニメ・ゲームの世界を考えることが可能だったが、ネットとコロナ禍のためにこれが大きく変わったと兼光は考えてる。 最大の変化はプラットフォームとコミュニティが紐づけされなくなったのだ。以前は雑誌ごとに読者コミュニティがあり、よりディープなマニアのコミュニティを求めるならば同人誌界へと足を踏み入れるのが当たり前だった。 この中で目立ったのが商業界と同人界の関係で相互に影響を与えながらもある程度棲み分けが確立していた。 同じ作家であっても商業と同人では違う表現の可能性を求める傾向があり、読者層も同人誌と商業誌では表現物に対する期待がやや異なる。著作権の扱いや企業視点もある程度までは同人は許容される存在であり、商業界に対する脅威と感じられることはあまりなかった印象が強い。 しかしネットの旺盛と共にプラットフォームとコミュニティの紐づけが徐々に緩み始めた。本来同人誌は「限定的に流通される非商業的個人主体表現物」という立ち位置であり、これは既存の商業誌ではできなかった可能性を模索するプラットフォームと期待されていた。 だがツィッターやYouTubeなどを活用すれば個人が瞬く間にそのコンテンツを広められるようなった。既存の商業ラインでは想定されていない作品作りや広く緩いコミュニティを自分を軸に作るようにできた。古い考え方で言えば商業出版の拡散力と同人界の濃密なコミュニティを兼ね備えた独自のプラットフォームを武器にすることができるようになったと言えるだろう。 この為に今後は商業と同人と言う区分けはなく、「開かれた公的表現(open-area public expression)」と「閉ざされた私的表現(closed-space private expression)」なる表現意図と表現背景を組み込んだ区分が有効なのではないかと考えている。 開かれた公的表現は主に商業誌の世界やマスメディアが得意とする領域だが、個人でこれを狙うことも可能であり、実際に行っている人も少なくない。 閉ざされた私的表現と言っても誰かが門戸を守っている秘密結社内の表現ではなく、同好の人間が私的領域を共有しているという前提で構築された創作の場だ。公的空間にあるにしてもそれは確固とした独自コミュニティが形成され、そこに入るには何らかの努力と理解が必要である。 ここで強調したいのだが、この両者を分ける線引きは簡単ではない。メインカルチャーとサブカルチャーの区分が簡単ではないのと同じであるが、当事者の意識や表現の意図を見ることである程度の差別化は可能ではないだろうか。また開かれた公的と閉ざされた私的表現の間にはたくさんの中間レイヤーがある。グラデーションであり、クリエーターはどちらかを選ぶことで完全にどちらかを捨てるのを強要されるわけではない。作品やジャンルも時間の経過とともにその位置をシフトさせていく可能性はいくらでもある。 大事なのは公的に共有されるのを目的とした表現なのか、もしくは独自の価値観や遊び場を保全したいと考える私的な場を意識した作品なのか――この意識がどのように働いているかを踏まえる事である。繰り返すがこの両者は完全には矛盾した目的意識ではない。しかし軸足は明確に異なるのに留意願いたい。前者は自らが世界の一部であるのを疑わず、後者は自らの世界を作りそれを他者が共有しなくても構わない理念が確固である。 突然このように結論に飛躍して申し訳ないが、このように考える理由は既存の商業誌や同人界の理念が今なお、激変した日本のアニメ・マンガ・ゲームの世界で形を変えても持ち堪えている所にある。 すなわち同人界で盛んだった「個人主体のコミュニティー作り」「内輪ネタ」「自己満足」「既存の商業出版の世界では許容されない表現」が同人誌界だけではなく、YouTubeやpixivなどの商業的投稿コンテンツ配信サイトやFantia、Patreon、pixivFANBOXなどのサブスクでも活発に続いている。古い枠組みで考えると公的で開かれた企業プラットフォームを使っていることでこれらはすべて「商業の領域」と捉えるべきだろう。しかし長年の日本にある「商業vs同人」という考え方が色々な形で継承され、「企業優先の営利目的ではない表現を気の合う仲間の間でがやがや楽しむ」のメンタルティが新しいプラットフォームで移植されていると言っても過言ではないと兼光は考えている。 すなわち「商業vs同人」の差別化は日本の表現の場では依然としてある程度機能しているが、プラットフォームが大きく変わったのだ。新しいテクノロジーに対してどのように適応したかを考えるのにこの「開かれた公的表現/閉ざされた私的表現」スペクトラムが役立つと考えている。 今後、生成AIの発達で作品の主体性が脅かされる事態が進むであろう。実際、創作作品は人の手で生まれたものであるという前提は崩れ去りつつある。しかし人が人であり続ける以上、連帯や理想を共有するという心理的渇望は変わらないと考える。作品についても作品を生み出した作者について興味が生まれ、それを軸にコミュニティーが形成されることも当分変わらないと思われる。作品ではなく作者、そしてその作品を支える同好者のコミュニティがより重要な地位を得る未来において「閉ざされた私的表現」を中心に展開する表現の場はますます重要になると思われる。 すべてがネットワークの上で共有され、その依拠性が疑わしくなった現在、同人誌のようなアナクロな世界に活路があるのであろうかという問いは避けては通れない。それではパロなど「許容された最大限自由な作品の発表の場」としての要素以外で同人誌の世界は存在し得るのであろうか?「開かれた公的表現」ではかならずしも展開しやすいわけではない、同じ趣味や価値観を共有した不特定多数向けの共通・共有・準私的な「砂場」「遊び場」として「閉ざされた私的表現」とその究極の発表手段である同人誌はまだ存在意義があると思う。 英語圏でzineの良さが再発見されたように、ネット社会でも同人誌はまだまだ担う役目があるのではないだろうか。その役割を考えるに私は今後、創作のコミュニティの役割が重要なキーワードになると考える。

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2nd 2022 Winter Comiket book: ‘Paradise Behind the Curtains’

This second book for Comic Market 101 is an art collection of my designs for The Lionheart Witch. I do nearly all the character designs, production designs and outfit designs for the series. This book focuses on non-military outfit designs … Continue reading

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2023 Lionheart Calendar coming

The 2023 Lionheart Calendar is now in the printers. I’ll be talking more details about it near future, but I wonder if there are people who would like a digital version of this calendar? I think I can make it … Continue reading

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Translating “Lolicon”

The meaning of words can alter significantly depending on context and culture. Even if the word is the same, it can mean radically different things from one person to another. Bearing that in mind, at least in the context of … Continue reading

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2084

It is 2084. Winston Smith Jr. was a 34 year old white man living in East London. While an aspiring art living in the Ends, Winston was frustrated in furthering his career as a creator. He was forced to do … Continue reading

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2002年米国最高裁「アシュクロフト対表現の自由連合」裁判判決文和訳

もうすでに20年前の判決文です。しかしながらこれからも色々参考になるところがが多いと思います。 2002年のアシュクロフト対表現の自由連合裁判は色々な影響を残しましたが、実在しない未成年に対して実在する未成年と同じ保護を与えるのは表現の自由を歪めるという判断は画期的であり、なおかつ内心の自由なる古い権利を再確認する重要な判決だったと今なお思っています。 この翻訳は弁護士の山口貴士、兼光ダニエル真、enart(敬称略順不同)による共同作業でした。 原文はこちらで確認できます。 裁判については「アシュクロフト対表現の自由連合」で検索してください。 米合衆国連邦最高裁判所No.00 -795ジョン・D・アッシュクロフト司法長官およびその他の申立て人 対 表現の自由連合およびその外の者 2002年4月16日 法廷意見書 ケネディ判事は判決理由を申し渡した。  我々はこの訴訟において、1996年の児童ポルノ防止法(CPPA、合衆国法典タイトル18の2251条以下参照)が表現の自由を奪うものであるかを検討する。CPPAは、未成年者を描写しているように見えるが実在の児童(child)を使用せずに製作された性的に露骨な肖像(image)にまで、連邦法で禁止される児童ポルノの範囲を拡大している。法令は、特定の条件のもとにおいて、これら、未成年者のように見える成人を使用したり、コンピュータ画像処理技術(computer imaging)を使用したりして作られた肖像についても、その所持や頒布を禁じている。議会によれば、新しい技術は、実在しない児童の写実的(realistic)な肖像を作ることを可能としている。議会の答申、合衆国法典タイトル18の2251条に続く覚書参照。  Ferber判決(New York対 Ferber、458 U.S. 747頁 、1982年)は、児童を児童ポルノ製作過程での搾取から守るという国家の利益(公共の福祉)のため、他の性的に露骨な表現と児童ポルノとを区別したものであるが、実在の児童を描いていない児童ポルノを禁止することによって、CPPAはFerber判決が児童ポルノの規制を合憲とした判断の射程範囲を逸脱するものである。同上758頁参照。  一般論として、ポルノは猥褻な場合に限って禁止することが許されるが、Ferber判決は、未成年者が登場するポルノはその肖像についてMiller判決(Miller 対 California、413 U.S. 15頁、1973年)で定義される猥褻の基準への抵触を問題とすることなく、法律で禁止することを肯定している。Ferberは次のように認めている。「Millerの基準は、猥褻であるとして禁止されうるもののあらゆる一般的定義と同様に、児童の性的搾取を促進する者を訴追する国家の特別かつ切実な利益を反映しない。(458 U.S. 761頁)」  我々は次の問題について考証する機会が無かったが、性的行為を行う者の外見上の年齢は、その性的な描写が社会規範に反するかということと関係していると見なして良いと想定する。性的に露骨な行為を行う幼い児童の画像(picture)が猥褻とされるかも知れないのに対し、同様の行為をしていても、それが成人または年長の青少年のものである場合には猥褻とはされないかもしれないのである。しかしながら、CPPAは猥褻な表現を対象とするものではない。議会は、合衆国法典タイトル18の第1460条から1466条によって猥褻表現を禁止している。Ferber判決において問題とされた立法と同様に、CPPAは猥褻の範疇に属さない表現を規制しようとしており、またMillerの基準に適合しようとはしていない。例えば、CPPAによる規制は、例えそれらが充分な社会的価値を持っていたとしても、映画のような視覚的表現にも及ぼされる。  それゆえ、解決されるべき主要な問題は、Miller判決の基準で猥褻と判断されるものでもなく、またFerber判決が規制を合憲とした児童ポルノでもない表現の世界を禁止しているCPPAの合憲性である。 1 1996年以前に、議会は児童ポルノをFerber判決で論じられている種類の描写、即ち実在する未成年者を使用して作られた肖像として定義していた(合衆国法典タイトル18の2252条、1994年版)。CPPAは合衆国法典タイトル18の2256条(8)(A)による禁止を維持しつつ、禁止されるべき表現の範疇として3つを加えている。その3つのうち、第1の2256条(8)(B)と第3の2256条(8)(D)について、この訴訟において合憲性が争われた。2256条(8)(B)は、「性的に露骨な行為を行う未成年者の、またはそのように見える」、「全ての写真、映画、ビデオ、絵(picture)、コンピュータの若しくはコンピュータによって作成された肖像又は絵を含む全ての視覚的描写」を禁止している。「全ての視覚的描写」に対する禁止は、どのようにしてその肖像が作られたかということに全く左右されない。この条項は、「バーチャル児童ポルノ」と時に呼ばれる範囲の描写を禁止しており、これはコンピュータで作成された肖像を含むものである。在来の方法で作られた肖像についても同様で、例えば、法令を文字どおりに読むと、「未成年者が性的に露骨な行為を行うように見える絵」である古代神話の一場面を描いたルネッサンス期の絵画(painting)までもが規制の対象に含まれる。また、CPPAは、例え子役を使って撮影されていなくとも、青年の役者が「実際のまたは擬似の(中略)性交(2256条(2))」行う未成年者に「見える」と陪審員が認定すれば、ハリウッド映画も禁止の対象とする。  これらの肖像は、その製作の過程において児童に被害を与えないどころか、そもそも児童が製作の過程に関与していない。しかし、議会はそれらの肖像がより直接的でない他の方法で児童を脅かすとした。小児性愛者達は、児童が性的行為に加わるように仕向けるために、それらの素材を使用するかもしれない。「成人との性的行為や、性的なきわどい写真のためにポーズを取ることに抵抗のある児童も、他の児童がそのような行為に参加して『楽しんでいる』描写を見せられることで、時に納得させられる場合がある。(議会の答申、合衆国法典タイトル18の2251条に続く覚書(3)参照)。さらに、小児性愛者はポルノ肖像によって「自身の性的欲求をそそられ」、「その結果として児童ポルノの製作と配布、そして実在の児童の性的虐待と搾取を増大させる」かもしれない。同覚書(4)、(10)(B)。 これらの理論的根拠の下では、被害は肖像の製作の方法からではなく、肖像の内容から生じるものとされる。それに加えて、議会はコンピュータで作成された肖像によって生じる別の問題を指摘した。これらの存在は実在の児童を使用しているポルノ業者を訴追することを難しくする。同覚書(6)(A)参照。議会は、画像処理技術が進めば、ある絵が実在の児童を使用して生産されたということを証明することがより難しくなるとしている。実在の未成年者を使用した児童ポルノを所持している被告が訴追を免れないようにするために、議会はバーチャル児童ポルノにまで禁止の範囲を広げた。  2256条(8)(C)は、バーチャルな肖像を作成するためのより一般的で程度の低い技術的手法を禁じている。この手法はコンピュータ・モーフィング(訳注:コラージュ)として知られる。ポルノ製作者達は、自ら肖像を作るよりむしろ、実在する児童の無垢な画像を、その児童が性的行為を行っているように見えるように改変することがある。モーフィングされた肖像はバーチャル児童ポルノの定義の範囲内に入ると言ってよいのであるが、実在する児童の人権と結びついており、その意味においてFerberの判決における肖像により近い。被上告人らはこの条項については違憲性を主張しておらず、我々もこの点については判断をしない。  被上告人らは2256条(8)(D)の違憲性を主張している。「のように見える」という条項の文のように、この条項の適用される範囲は極めて広い。2256条(8)(D)は児童ポルノを、「性的に露骨な行為を行う未成年」を描いている「との印象を伝えるような方法で広告、宣伝、上演、描写または頒布」された、あらゆる性的に露骨な肖像を含むと定義している。ある委員会報告では、この条項は、児童ポルノとして触れ込みをされた性的に露骨な肖像に向けられているとされている。上院報告.No.104-358、22頁(1996年)参照(この条項は、児童ポルノ製作者と小児性愛者が、児童ポルノとして触れ込みをされる露骨に性的な肖像の製作または頒布を通じ、児童の性や性的活動への好色的興味につけ込むことを妨げている)。しかし、この法令は触れ込み行為に関係していない所持者ですら罰するものであり、適用範囲はそのようには限定されていない。即ち、一度ある作品に対し児童ポルノというレッテルが貼られると、別の所持者の手に渡った場合にも表現自体に児童ポルノであるという属性が残り、例えその他の点ではいかがわしくない場合においてすら、その所持は違法となる。 被上告人である表現の自由連合その他は、CPPAがそのメンバーの活動を脅かすのを恐れ、California北部を管轄する連邦地方裁判所に提訴した。成人娯楽産業のCalifornia同業者組合である連合は次のように申し立てた。即ち、そのメンバーは、自身の性的に露骨な作品に未成年者を使用していないが、その素材のあるものがCPPAの拡大された児童ポルノの定義に含まれるかも知れないと信じている、と言うのである。他の被上告人は、ヌーディストの生活様式を擁護する本の発行者であるBold Type社、裸体画家であるJim Gingerich、官能的(erotic)肖像を専門としている写真家のRon Raffaelliである。被上告人達は、「のように見える」と「印象を与える」という規定が過度に広汎かつ曖昧であり、修正第1条による保護を受ける作品の製作を萎縮させると主張した。連邦地方裁判所はこれを認めず、政府に有利な略式判決を下した。裁判所は、「『ロミオとジュリエット』のような性的作品のいかなる改作も『禁制品』として扱われるということは『殆どありえそうもない』という理由で、規制範囲が過度に広汎であるが故に違憲無効であるとの主張を退けた。 App. to Pet. for Cert.62a-63a. … Continue reading

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