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2002年米国最高裁「アシュクロフト対表現の自由連合」裁判判決文和訳

もうすでに20年前の判決文です。しかしながらこれからも色々参考になるところがが多いと思います。 2002年のアシュクロフト対表現の自由連合裁判は色々な影響を残しましたが、実在しない未成年に対して実在する未成年と同じ保護を与えるのは表現の自由を歪めるという判断は画期的であり、なおかつ内心の自由なる古い権利を再確認する重要な判決だったと今なお思っています。 この翻訳は弁護士の山口貴士、兼光ダニエル真、enart(敬称略順不同)による共同作業でした。 原文はこちらで確認できます。 裁判については「アシュクロフト対表現の自由連合」で検索してください。 米合衆国連邦最高裁判所No.00 -795ジョン・D・アッシュクロフト司法長官およびその他の申立て人 対 表現の自由連合およびその外の者 2002年4月16日 法廷意見書 ケネディ判事は判決理由を申し渡した。  我々はこの訴訟において、1996年の児童ポルノ防止法(CPPA、合衆国法典タイトル18の2251条以下参照)が表現の自由を奪うものであるかを検討する。CPPAは、未成年者を描写しているように見えるが実在の児童(child)を使用せずに製作された性的に露骨な肖像(image)にまで、連邦法で禁止される児童ポルノの範囲を拡大している。法令は、特定の条件のもとにおいて、これら、未成年者のように見える成人を使用したり、コンピュータ画像処理技術(computer imaging)を使用したりして作られた肖像についても、その所持や頒布を禁じている。議会によれば、新しい技術は、実在しない児童の写実的(realistic)な肖像を作ることを可能としている。議会の答申、合衆国法典タイトル18の2251条に続く覚書参照。  Ferber判決(New York対 Ferber、458 U.S. 747頁 、1982年)は、児童を児童ポルノ製作過程での搾取から守るという国家の利益(公共の福祉)のため、他の性的に露骨な表現と児童ポルノとを区別したものであるが、実在の児童を描いていない児童ポルノを禁止することによって、CPPAはFerber判決が児童ポルノの規制を合憲とした判断の射程範囲を逸脱するものである。同上758頁参照。  一般論として、ポルノは猥褻な場合に限って禁止することが許されるが、Ferber判決は、未成年者が登場するポルノはその肖像についてMiller判決(Miller 対 California、413 U.S. 15頁、1973年)で定義される猥褻の基準への抵触を問題とすることなく、法律で禁止することを肯定している。Ferberは次のように認めている。「Millerの基準は、猥褻であるとして禁止されうるもののあらゆる一般的定義と同様に、児童の性的搾取を促進する者を訴追する国家の特別かつ切実な利益を反映しない。(458 U.S. 761頁)」  我々は次の問題について考証する機会が無かったが、性的行為を行う者の外見上の年齢は、その性的な描写が社会規範に反するかということと関係していると見なして良いと想定する。性的に露骨な行為を行う幼い児童の画像(picture)が猥褻とされるかも知れないのに対し、同様の行為をしていても、それが成人または年長の青少年のものである場合には猥褻とはされないかもしれないのである。しかしながら、CPPAは猥褻な表現を対象とするものではない。議会は、合衆国法典タイトル18の第1460条から1466条によって猥褻表現を禁止している。Ferber判決において問題とされた立法と同様に、CPPAは猥褻の範疇に属さない表現を規制しようとしており、またMillerの基準に適合しようとはしていない。例えば、CPPAによる規制は、例えそれらが充分な社会的価値を持っていたとしても、映画のような視覚的表現にも及ぼされる。  それゆえ、解決されるべき主要な問題は、Miller判決の基準で猥褻と判断されるものでもなく、またFerber判決が規制を合憲とした児童ポルノでもない表現の世界を禁止しているCPPAの合憲性である。 1 1996年以前に、議会は児童ポルノをFerber判決で論じられている種類の描写、即ち実在する未成年者を使用して作られた肖像として定義していた(合衆国法典タイトル18の2252条、1994年版)。CPPAは合衆国法典タイトル18の2256条(8)(A)による禁止を維持しつつ、禁止されるべき表現の範疇として3つを加えている。その3つのうち、第1の2256条(8)(B)と第3の2256条(8)(D)について、この訴訟において合憲性が争われた。2256条(8)(B)は、「性的に露骨な行為を行う未成年者の、またはそのように見える」、「全ての写真、映画、ビデオ、絵(picture)、コンピュータの若しくはコンピュータによって作成された肖像又は絵を含む全ての視覚的描写」を禁止している。「全ての視覚的描写」に対する禁止は、どのようにしてその肖像が作られたかということに全く左右されない。この条項は、「バーチャル児童ポルノ」と時に呼ばれる範囲の描写を禁止しており、これはコンピュータで作成された肖像を含むものである。在来の方法で作られた肖像についても同様で、例えば、法令を文字どおりに読むと、「未成年者が性的に露骨な行為を行うように見える絵」である古代神話の一場面を描いたルネッサンス期の絵画(painting)までもが規制の対象に含まれる。また、CPPAは、例え子役を使って撮影されていなくとも、青年の役者が「実際のまたは擬似の(中略)性交(2256条(2))」行う未成年者に「見える」と陪審員が認定すれば、ハリウッド映画も禁止の対象とする。  これらの肖像は、その製作の過程において児童に被害を与えないどころか、そもそも児童が製作の過程に関与していない。しかし、議会はそれらの肖像がより直接的でない他の方法で児童を脅かすとした。小児性愛者達は、児童が性的行為に加わるように仕向けるために、それらの素材を使用するかもしれない。「成人との性的行為や、性的なきわどい写真のためにポーズを取ることに抵抗のある児童も、他の児童がそのような行為に参加して『楽しんでいる』描写を見せられることで、時に納得させられる場合がある。(議会の答申、合衆国法典タイトル18の2251条に続く覚書(3)参照)。さらに、小児性愛者はポルノ肖像によって「自身の性的欲求をそそられ」、「その結果として児童ポルノの製作と配布、そして実在の児童の性的虐待と搾取を増大させる」かもしれない。同覚書(4)、(10)(B)。 これらの理論的根拠の下では、被害は肖像の製作の方法からではなく、肖像の内容から生じるものとされる。それに加えて、議会はコンピュータで作成された肖像によって生じる別の問題を指摘した。これらの存在は実在の児童を使用しているポルノ業者を訴追することを難しくする。同覚書(6)(A)参照。議会は、画像処理技術が進めば、ある絵が実在の児童を使用して生産されたということを証明することがより難しくなるとしている。実在の未成年者を使用した児童ポルノを所持している被告が訴追を免れないようにするために、議会はバーチャル児童ポルノにまで禁止の範囲を広げた。  2256条(8)(C)は、バーチャルな肖像を作成するためのより一般的で程度の低い技術的手法を禁じている。この手法はコンピュータ・モーフィング(訳注:コラージュ)として知られる。ポルノ製作者達は、自ら肖像を作るよりむしろ、実在する児童の無垢な画像を、その児童が性的行為を行っているように見えるように改変することがある。モーフィングされた肖像はバーチャル児童ポルノの定義の範囲内に入ると言ってよいのであるが、実在する児童の人権と結びついており、その意味においてFerberの判決における肖像により近い。被上告人らはこの条項については違憲性を主張しておらず、我々もこの点については判断をしない。  被上告人らは2256条(8)(D)の違憲性を主張している。「のように見える」という条項の文のように、この条項の適用される範囲は極めて広い。2256条(8)(D)は児童ポルノを、「性的に露骨な行為を行う未成年」を描いている「との印象を伝えるような方法で広告、宣伝、上演、描写または頒布」された、あらゆる性的に露骨な肖像を含むと定義している。ある委員会報告では、この条項は、児童ポルノとして触れ込みをされた性的に露骨な肖像に向けられているとされている。上院報告.No.104-358、22頁(1996年)参照(この条項は、児童ポルノ製作者と小児性愛者が、児童ポルノとして触れ込みをされる露骨に性的な肖像の製作または頒布を通じ、児童の性や性的活動への好色的興味につけ込むことを妨げている)。しかし、この法令は触れ込み行為に関係していない所持者ですら罰するものであり、適用範囲はそのようには限定されていない。即ち、一度ある作品に対し児童ポルノというレッテルが貼られると、別の所持者の手に渡った場合にも表現自体に児童ポルノであるという属性が残り、例えその他の点ではいかがわしくない場合においてすら、その所持は違法となる。 被上告人である表現の自由連合その他は、CPPAがそのメンバーの活動を脅かすのを恐れ、California北部を管轄する連邦地方裁判所に提訴した。成人娯楽産業のCalifornia同業者組合である連合は次のように申し立てた。即ち、そのメンバーは、自身の性的に露骨な作品に未成年者を使用していないが、その素材のあるものがCPPAの拡大された児童ポルノの定義に含まれるかも知れないと信じている、と言うのである。他の被上告人は、ヌーディストの生活様式を擁護する本の発行者であるBold Type社、裸体画家であるJim Gingerich、官能的(erotic)肖像を専門としている写真家のRon Raffaelliである。被上告人達は、「のように見える」と「印象を与える」という規定が過度に広汎かつ曖昧であり、修正第1条による保護を受ける作品の製作を萎縮させると主張した。連邦地方裁判所はこれを認めず、政府に有利な略式判決を下した。裁判所は、「『ロミオとジュリエット』のような性的作品のいかなる改作も『禁制品』として扱われるということは『殆どありえそうもない』という理由で、規制範囲が過度に広汎であるが故に違憲無効であるとの主張を退けた。 App. to Pet. for Cert.62a-63a. … Continue reading

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誰のための表現の自由か

[この文章は2018年11月にツィッターで連続投稿したを内容を補足・編集・改訂したものです] 表現への許容の度合いは様々であり、表現者を取り巻く基準に「世界標準」というものはありません。また、同じ国の中の中でも地域やジャンルによっては様々な基準があります。市民の自治による監督権限が分散している国では自治体によって基準が違いますし、映画やTV、ゲームなどを巡って異なる基準を制定している国家は珍しくありません。また法令で規定されている範囲は飽くまでも法令の設けた基準であり、できるだけ明確に・できるだけ公平に・できるだけ表現の自由と個人の尊厳が守られるように設計するのが一つの理想でしょう。 表現の自由を守る理由は色々あります。政府の腐敗や暴走を止めるため、文化・芸術・科学の発展を阻害しないため、報復を恐れない議論を可能にし、表現の平等性を保全しつつ発言者の人権を損なわないため。私個人の意見ですが、守られるべき自由は人から疎まれるような「人気のない」「嫌われた」「小さい声」を重要視するのであって、法の保護なくとも持ち上げられるような人気のある、格式高いを優先する必要はないと思います。表現の自由は万人にとって常に居心地のよい景観作りをするためではないのです。 個人が安心に感じられる環境作りは重要ですが、特定個人の主観的安心感を基準にして他人の権利を制限することは危険極まりないと思います。思い出して欲しいのですが、これまでに「社会的、道徳的、公序良俗の違反である」を理由に色々な個人の尊厳が蔑ろにされてきました。このような権威の乱用は世界各国で行われており、今なおも幾度となく進行している例はあまりにも数が多いです。 私は社会や個人を尊重する公共性の構築と表現の自由の共存は可能だと考えています。歴史的な町並みに建てられる物件は外装保守的でも、内装はいくらでもはっちゃけても良いのではないでしょうか。これを情報共有の場において可能にしてくれるのがゾーニングであり、メディア・リテラシーだと思います。 気に入らない内容に直面したとき、私たちは表紙を閉じる・チャンネルを変える・視線を逸らすことができることを忘れてはいけません。目に入るもの全てを気にするのはやや息苦しいと思います。「気にしない」というスキルは情報過多社会に生きる上では必要不可欠ではないでしょうか。 よく「子供がみたらどうなんだ」や「フィクションでも心が傷つく人がいる」という主張を論拠にした発言があります。一見、これは弱者や被害者への配慮を重要視すべき、という誠実で慈しみに溢れる素晴らしい意見に聞こえますが、冷静に分析すると論理的に破綻している側面があり、そのまま看過してしまえばパンドラの箱をあけるのに相当するのではないかと不安に感じます。 残念ながら私たちが生きる現実社会は見守られていない子供にとって危険な側面があります。人が人としての自由意志に導かれて行動する際、誤って怪我をしたり亡くなることがあります。これらの危険要素を徹底して取り払うには個人の自由を大きく制限し、市民を広く細かく管理するのを良しとする社会とそれを可能にする技術が必要でしょう。 私たちの命の源である太陽も数秒間直視するだけで私たちの視力を奪います。なくてはならない水もタライに張ることで溺死を誘発できるのです。自然に生える樹木も登れば高さによっては落下による怪我か死に至る危険極まりない構造物といえます。 しかしだれも太陽を無くせ、水を制限しろ、樹木を全て伐採せよとは言いません。言うべきでもないでしょう。 危険な世界の中をうまく立ち回る知恵と知識、分別と成熟性を備わるまで私たちは子供を適切に見守り、成熟した人間に育てるのが最善だと思います。 成熟した人々同士のやり取りを前提とした社会生活を、分別つかぬ子供の時折無軌道な行動力を意識して組み変えるべきはないと思います。三輪車に乗る子供と大型トラックが同じ道を走るような交通法規の構築やインフラの整備は無茶なのです。 「フィクションでも心が傷つく人がいる」ついては大変申し訳ないのですが、配慮には限界あります。私はアレルギー持ちですが、「私のアレルギーを論拠に他人の行動や食事を常に制限すべき」でしょうか?私は特定の食べ物の食べると命の危険がありますが、だからと言ってそれを他人に押し付けません。自ら摂取するモノについて自分で気をつけるしかありません。 私にとってアレルゲンであるものも、他人にとってはおいしい食材であり、豊かな食生活の一部なのです。 人によって何が害をなすのか予測し難い部分もあります。それらが市場を媒介して流通するのに不満を感じることがあるかもしれませんが、市場とは万人それぞれの需要・嗜好を満足させるために存在するものであり特定個人のための流通ではないと思います。スーパーにアレルゲンがあってもスーパーを潰せとは誰も言いません。 創作物が口に合わないのであればそれは避けるのがよいでしょう。しかしその創作物が存在すること事態が許せないから無くせというのは危険な論理です。あなたが大事にしているモノを違う人が全否定するのを良しとしてしまいます。色々な作品や並列して存在できることは素晴らしいと私は感じます。成人向けゾーニングや多種多様なジャンルが介在する日本こそ人々の多様性に準じた多種多様な趣味趣向を満足させられる豊かな市場といえるのではないでしょうか。 また創作物は概念上の存在であり、読解力がないとその情報の伝達は設立しません。どのような人畜無害な創作物に対しても嫌悪感を起こすことは可能です。手の影を見て蜘蛛が見える人もいることを想定してモノづくりをするべきでしょうか? 対面で物語を紡ぐならいざ知らず、全能の神でもなければ手に取るかもしれない読み手全員を意識して物語作りをする出来ないと思います。何が誰の琴線に触れるのか、何が誰かの逆鱗に触るのか、すべからく予知することは無理です。なので結局は「摂取するモノを気をつけるしかない」としか言いようありません。 もしろん、作品に対して不満を露にすることは制限すべきではありません。しかし自らが不快感を感じたのだから他人もその不快感を共有するのは当然であるというのは行過ぎた配慮の強要に繋がりかねません。それは特定の作品を持ち上げる人にも当て嵌まることです。あなたが良いと感じているのを他人に押し付けるのは行き過ぎですね。 私たち一人一人の基準と私たちを取り巻く基準は世界共通でもなく、歴史的にも普遍ではありません。人は変わります、社会は変わります。表現規制の大義名分は崇高であることもあれば、恐ろしく下らないこともあります。規制や基準が裸の王様であるとあなたが指摘すると叩く人が出てくるかもしれません。そこまでは予測可能の範疇でしょう。 ですが規制や基準に対して異議を唱えれば、その主張を応援する人も確実にいます。表現者の場合、それは読者と視聴者でしょう。しかし中には規制を求める相手が憎いという動機が先走って、過激な発言や行動を繰り出す人も出てくることがあります。相手が過激だから自分も!は不毛ではないでしょうか。 あなたはたくさんの方々に支えられて生きているのです。でもあなたの理念や思考自体はあなただけのものです。他人への配慮や意識することは社会の中で生きる上で大事ですが、自己の確立を放棄しないで下さい。規制を巡る論拠は絶対的正義とか世界共通の倫理とかが持ち出されやすいですが、あなたが考え、感じるのと同じように他人も思考し、色々な受け留めをしているのです。 表現規制や表現の基準は自己決定権や個人の権利、尊厳に直結しますが、それがあなたの全てではありません。だれでも安心して安全な自由な表現を追求できる市場は絶え間ない助け合いと連携の上で成立っています。それを意識し、出来る範囲でその環境整備に貢献しましょう。でもその間に自分を見失ったら意味がありませんから気をつけてくださいね。

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萌え絵の違法性

日本においてアニメ的な配色と大きな瞳や可愛らしいとされる記号の組み合わせで構成された、いわゆる「萌え絵」が社会的に広まったのは21世紀に入ってからでしょうか。それ以前からもマンガやアニメは広く市民権を得ていましたが、アニメ・マンガ文化のサブカルチャーともいえるかもしれない美少女・BL系分派がサザエさんやドラえもんなどの作品群と肩を並べる世界に近づいたといえるのかもしれません。 さて日本国内から「日本の萌え絵は性的な要素が強く、直接エロ描写がなくても海外では児童ポルノとして捉えれるからよろしくない」や「萌え絵があまりにも広く社会的に浸透している。海外から嫌悪感どころか場合によっては違法なコンテンツなのだから身の丈をわきまえてもっと大人しくあるべきだ」という主張が2018年にちょくちょく見かけられるようになった気がします。 キズナアイをはじめとするVtuber(バーチャルYouTuber)が社会現象として話題になりはじめてからこの話題は加速しているように思えて仕方ありません。 しかしながら日本のアニメ・マンガにおいて大きな地位を占める「萌え系」が海外では社会的に不謹慎とされる主張や表現の自由の保護に入らないという主張には同意できません。制限速度を超える速度をだせる車の話を持ち出して「車は違法」というような主張に思えます。そもそも海外での規制基準は非常に多種多様なので一括りで論じることは事実誤認や歪曲へとつながりやすいと思います。 まず欧米の基準を持ち出す時には「欧米」の概念を考える必要があります。 アメリカは表現の自由を最大限保証する国として有名で、アメリカでは許容されてもカナダやドイツでは違法とされるような表現物が多々あります。 欧米諸国はは民主主義・市民生活の保全・個人の権利の保護という理念で共通点が多いと言えるでしょう。しかし、具体的にどのようにその理念を守るかについてはさまざまな取り組みを模索し続けています。国によっては驚くほど寛容ですぐ隣の国では極めてきびしかったりします。 つまり「欧米の基準」「先進国の基準」を持ち出すことは曖昧極まりないと思います。 このような欧米各国の異なる取り組み方を意識するのに加え、長い歴史的観点と多様な視点を垣間見れる鳥瞰図が大事である私は考えています。さらにはどの国にも複数の異なる基準が並列し、共存していることを忘れていけません。 さて、ここでアメリカの基準に焦点に当てたいと思います。世界で非常に影響力のある米国の表現規制や視点ですが、次の四つに大別できると思います: (1)連邦法や州法の条文基準と判例 (2)FBやTwitter等ユーザーコンテンツ共有プラットフォーム利用利用規定の基準 (3)特定のコミュニティで受け入れられた基準 (4)個人・団体が提唱する基準 ―これら全部別々です ■(1)連邦法や州法の条文基準と判例 まず(1)ですが、米国は日本と猥褻の取り扱いが大きく異なります。日本では赤裸々な性描写において陰茎と女性器に対して程度の修正を加えれば、題材やその描写の傾向など、作品の内容についてはほぼ一斉に不問とされ、当局から追求されません。これは日本国刑法175条にそのように定義されてからではなくて、猥褻図画に該当嫌疑としての当局の運用基準です。不平不満が多い基準とは思いますが、ある程度までわかりやすいのは否めません。 ときどき書き換えられるのが本当に困りますが。 しかしながら、当局が問題視して警告・逮捕・立件したとしても裁判所で結審されなければ猥褻とは認定されません。日本は米国に比べると警察と検察当局による立件基準はかなり保守的で、法廷で当局の立件が無罪と結審となるケースは少ないです。(ただ、ここ近年増えている印象はあります。) 一方、米国では猥褻は陪審員の結審によって認定されます。日本のように判事ではなく地方に根ざした陪審員が自らの価値観に導かれて違法性を考えます。市民の基準が地方地方によって大きくことなるのが特徴的です。このため、AVの撮影がロスに集中しているなどの現象が発生します。 確かに米国は想像上の未成年の性描写の違法化を1990年代から模索しています。 しかし2002年に米国最高裁はヴァーチャル児童ポルノを違法化を試みた1996年のChild Pornography Prevention Act(児童ポルノ防止法)に対して違憲と言う判断を下しました。しかも9人いる判事が6対3という割合で違憲と認定した事は当時随分話題になりました。この時に最高裁は色々な観点から実在する未成年者を含まない児童ポルノを全面禁止するのは過剰であると指摘しています。 ・同法律は表現の自由が保障されている猥褻ではない表現も違法化している。 ・児童虐待を伴う実在児童ポルノは児童の保護と福祉を踏まえ、表現の自由が守るべき範囲には含まれない。だが、児童虐待を伴わない偶像児童ポルノに同じような「表現の自由を上回る公共の福祉性を優先する必要」は当てはまらない。 ・偶像児童ポルノと実在児童を巻き込む性的虐待犯罪行為の間に明確で直接的因果関係が認められない。 ・実在児童ポルノが違法である最大の理由はその内容ではなく、その製造過程にある。 ・犯罪に使われるかもしれないという可能性だけで、それ自体が無害であるモノ・合法的に制作されたモノを違法化するのは過剰である。 ・違法行為を促がしかねないという理由だけで表現を規制することは過剰である。市民の私的思考を望ましい方向に向けるために法規制するのは不当である。 ・偶像児童ポルノが実在児童ポルノの制作を促がすという論拠は脆弱であり、実際には取扱に非常に厳しい処罰規定が伴う実在児童ポルノを偶像児童ポルノが市場から駆逐する可能性がある。 この2002年の最高裁の判決に不満を持つ人は数多く居ました。半年もしないうちに新たな法律が連邦議会で可決されて、2003年にブッシュ大統領の署名をもってProsecutorial Remedies and Other Tools to end the … Continue reading

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The Dangers of Fictional Human Rights

I have written in the past about some of the seductive qualities of suppressing unpleasant speech in my entry titled, The Seduction of the Thought Police. Below are some points that I made in that entry: “…when faced with realities … Continue reading

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Some Common Western Misconceptions

When answering inquires from the overseas press regarding artistic freedom in manga and anime, I try to add the following note. I am tired of being type cast as the tone-deaf guy that wants to protect anime and manga at … Continue reading

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鎖国という市場構築

『中国、3月10日より外国企業のゲームやアニメ配信を禁止に。合弁会社も不可』 http://www.gamecast-blog.com/archives/65854634.html 「中国の情報統制が、アプリに影響を及ぼしそうだ。 New York TimesやForbesが伝えるところによると、2016年3月10日より中国で新しい規定が施行され、中国国外の企業は、中国でオンラインコンテンツを配信できなくなるとのこと。 このオンラインコンテンツには、文章、地図、ゲーム、アニメや音楽やビデオが含まれる」 情報統制という括りで紹介されているこの記事ですが、ちょっと違う側面から考え必要があると思います。 現在、ニュース・娯楽・情報の多くは世界中で共有されています。英語圏で作成された娯楽やニュースが世界を駆け巡る速度が非常に高いのはそれだけ英語を活用するひとが世界に多いことを裏付けています。 しかしマンガやアニメとなると日本語のままでも影響力が国内だけに留まらず、海外でもかなりの波及力を保持しています。 それは海外で日本語ができるひとが多いからではなく、「マンガ・アニメでは日本が総本山」という刷り込みが強く、人口一人あたりの市場規模が世界最大だからです。 以下、2014年のデータです: 国 : 人口 / コミック出版市場規模 / アニメ市場規模 日本 : 約1.2億人 / 約3569億円 / 約1兆4913億円 米国+カナダ : 約3.5億人 / 約1020億円 / 不明 中国 : 約13億人 / 不明 / 約1.7兆円 抜粋元はそれぞれの数字からリンクを貼りました。 単純比較するのは危険だと思いますが、北米の人口が日本の3倍なのにコミック市場は日本の1/3、中国の人口は日本の10倍なのにアニメ市場が日本とほぼ同じであることがわかります。かなり都合の良い数字を並べているのは存じておりますが、ここで申し上げたいのは日本の人口と制作者人口の数を考えると日本の市場は凄まじく、多種多様な作品が膨大に生み出されているという私なりの印象です。 … Continue reading

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Misguided Priorities and Self-Contradictions in the United Nations

Update: The UN Committee on the Convention of the Elimination of All Forms of Discrimination against Women has released their final report regarding women’s rights. Go here to see what they had to say about Japanese anime and manga. 国連女子差別撤廃委員会の対日審査最終見解でマンガやアニメについて言及した部分(英語)を掲載しました。件の部分は下線されています。 — … Continue reading

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日本と海外からの視点の乖離:2008年ブラジル会議を検証

2015年10月26日に国連の「子どもの売買、児童売春、児童ポルノ」に関する特別報告者、マオド・ド・ブーアブキッキオ(Maud de Boer-Buquicchio)氏による「特に極端な児童ポルノ・コンテンツを扱った漫画は、禁止すべきだ」という発言は大きな話題を呼びました。しかしながら過去に遡るとこのように創作上の行為と現実社会での行為を類似物であるという主張が海外の国際会議では何ら珍しくありません。 兎角、日本のマンガ・アニメの現状から掛け離れた議論が展開されている例として、2008年にブラジルで開催された「第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する会議」で日本のアニメ・マンガがどのような脈絡で論じられたかを検証すべきだと思います。 以下、2008年に発表されたエクパット・インターナショナルが発表した論文からの抜粋と小生による翻訳です。 原文:Child Pornography and Sexual Exploitation of Children Online – A contribution of ECPAT International to the World Congress III against Sexual Exploitation of Children and Adolescents (Rio de Janeiro, Brazil 25-28 November) 抜粋箇所:同書の17ページから20ページ 原典は同会議オフィシャルウィブサイトに掲載もその後ドメイン失効でリンク切れの模様http://www.iiicongressomundial.net/congresso/arquivos/thematic_paper_ictpsy_eng.pdf (2015年現在リンク切れですが “Child … Continue reading

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Tokyo Begins Moralizing of Manga

Many of you have asked information regarding Tokyo’s recent decision to brand Imōto Paradise! 2 as harmful minors under the new guidelines that were created when Bill 156 was passed in December of 2010. I’ve provided my feedback on this issue … Continue reading

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Orwellian Obscenity

‘Who controls the past,’ ran the Party slogan, ‘controls the future: who controls the present controls the past.’ -George Orwell, 1984 On April 19th, the offices of Core Magazine were raided by the Tokyo Metropolitan Police. The news regarding the … Continue reading

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