『デウス・エクス・アートマキナ』:作画AIによる日本オタク界への大局的影響を考える

画像:2022年10月の段階で三つの作画AIに「女の子、キツネ耳、白耳、白尻尾、ぴっちりボディスーツ、だぼだぼジャケット、秋葉原、夜の街、雨、路面に反射」などと入力した出力した結果。絵柄は指定しておらずそれぞれの作画AIのデフォルトスタイルである。

■今回の騒動の背景を少々……

作画AIが及ぼす影響について日本のクリエーターや受け手側の間でかなり憂慮する声が広がっています。この10年、機械学習の躍進とそれが社会に及ぼした影響はすさまじいの一言としか言いようがないと思います。機械翻訳の質が飛躍的に向上したことによって一般的な会話であれば機械によってその内容が判別され、多言語へと置き換えることが可能となったことに目を見張らせた人は少なくないでしょう。AI——人工知能は一つの流行り文句となりエアコンの設定温度から脱税行為を見つける仕組みにまで関連付けられるようになっています。絵の世界においても2000年以前からユーザーの描く線を補正し、アニメーションをより滑らかにする機能で貢献してきました。

しかしさすがに誰もAIアルゴリズムの向上で人が書いたイラストを再現できるとは予想できなかったでしょう。

コンピューターがチェスで人間より優れるようになるにはかなりの年月が掛かりました。しかし2022年の夏の数か月の間でコンピューターが作成するイラストの完成度は目覚ましい速度で成熟を推し進め、夏が終わることには作品によっては人が描いたのかAIが描いたのかを訓練された絵描きであっても見分けしにくい作品がどんどん増えています。

2022年7月、Midjourneyがかなり高度なイラストをテキスト入力された内容に合わせて作成できるということでネットで話題が沸騰しました。これまでも画像を作成できるAIシステムはありましたが、Midjourneyは西洋絵画などを軸足にして画像を出力させたのが大きな話題を呼びました。ユーザーは様々な描写内容をテキストで入力するとAIがその内容に合わせてなるべく忠実な画像を出力をします。Stable Diffusionがこれに隋髄しますが、こちらはオープンソースということもあり費用を払わずいくらでも画像を作成できるということが強みを発揮しました。Midjourneyに比べるとStable Diffusionの作成する画像にはややたどたどしい部分がありますが、的確なテキスト入力と細かい調整を繰り返せば目を奪われるような美しい絵を数分で作成することが可能だったのです。人間が同じ絵を描こうとすれば数日かかります。

ネット上のクリエーターのみならず多くの人々を驚かせたのがMidjourney作成イラストがアメリカ合衆国コロラド州のステートフェアーで佳作として賞を受賞した事件です。投稿者は色々な微調整や細かい仕上げ処理が施されたイラストであればAI作画であってもそれは芸術的な試みとして認知されるべきだと訴えましたが、異論も続出します。反論としてはその絵は作画AIが活用するアルゴリズムが可能としたものであり、AIが活用した膨大な量の参考資料がなければ設立しないというのがあります。

コロラド州でAIによって作成された絵が人間が作った絵よりも高い評価を得て賞を獲得したことでAIが人間のクリエーターを置き換えること可能性がより現実味を帯びます。しかしこの危機感は主に西欧の芸術絵画を描く画家やコンセプトアートを生み出すクリエーターや写実的なイラストに携わる方々に限定されていました。この時点で多くの日本のクリエーターによって作画AIを背景の作成や色彩確認・調整の道具としては便利だがキャラクター自体についてはまだまだ人間の活躍する領域にとどまっているように思えました。

■NovelAIというバケモノ

しかしこの見込みは2022年10月初頭にNovelAIがあっけなく打ち壊してしまいました。日本のアニメ・マンガ画風でキャラクターを説得力ある形で描けるようになったのです。NovelAIは取り扱いが楽で高品質のアニメ・マンガ画風のキャラクターを何枚も即座に作成することできます。NovelAIはStable Diffusionをカスタム化したAIで予め日本アニメ・マンガキャラを作成することを想定し、Danbooruという主に世界中のユーザーによって違法アップロードされた日本アニメ・マンガ画像で構成されたまとめサイトの膨大な画像データを参考にするよう設計されていました。Danbooruはかなり前から稼働している画像アーカイブでユーザーによる非常にきめ細かいタグ付け(黒髪、褐色、巨乳、太い眉毛、八重歯、メガネ、セーラー服、夜景、夏、プールなど)が可能となっているので画像のデータセットとしては理想的です。

NovelAIを活用すればユーザーは簡単な指示をいくつか繰り出すだけで何十枚ものイラストを瞬く間に作成することができ、それらの画像の所有権はユーザーものとされていました。出力された画像はすべて出来良いと言えませんが、中には人の手で書いたイラストと並べてもそん色のないのも生み出せます。

上手く調整すればNovelAIは既存の絵描きさんの絵柄を再現することができます。指定された絵描きの絵柄で特定のキャラを任意の状況で描くことが可能なのです。出力結果には良し悪しはありますが、時には流し見ではAIとはとても思えないほど良い物を作成できます。

■作画AIの長所

まず最初にここで言う作画AIとは学び、考え、創作する力があるコンピューターの話をしているわけではありません。現在においてAIとはプログラマによって生み出された複雑なアルゴリズムを用いた機械学習システムであり、そのシステムはユーザーによって操作されます。この他にもこのような処理を模したソフトウェアの機能もAIと俗称されます。機械学習の内容は人によって作り出され、そのデータ処理は人が指定したパラメーターを元に進められます。SF作品に登場するAIとは異なり、今現在のAIには意識はなく高等生物には必要不可欠とされている無制限連想学習(unlimited associative learning)という生物が感じ取った刺激を記憶・整理する手法を備えていません。

作画AIが人間を置き換えることは不可能です。人が違う人を置き換えることができない以上、AIがそれを成し遂げるとは到底思えません。(少なくとも人類が人間を完全に複製する手段を確立するまでは無理でしょうし、そもそも人間を構成する体と心についての理解はかなり危ういところが多いのが現状です。)

作画AIは参考資料に既存の作品に大きく依存しており、ユーザーが的確なイメージを思い描けないと洗練された出力を確立することは難しいです。題材によって共通性の高いパターンを把握し、絵をそれら要素へと解体し再構築します。この作業が実に滑らかに執り行われているのには驚かされますが、コンピューターは新しいアイディアを生み出すことはできません。

しかし「無限の猿定理」(多くのサルにタイプライターを与えて無限の時間を与えランダムにキーを叩けばやがて文学作品が生まれる可能性がある)は作画AIにおいて有効であると言えるでしょう。ユーザーが膨大な数の絵を出力させることが容易であり、なおかつ人間は混沌や自然の中でパターンや記号・意味・特徴を見出しそれに意味を与える力(例としては変哲のない木目の中で人の顔を見出す傾向)を授かっているのでやがて作画AIによって生み出された作品が本当に革新的な芸術作品を生み出すきっかけになる可能性は十分あるでしょう。

機械が生み出した「新しいコンテンツ」を人が解析し、楽しむこと自体はそれほど新しい現象ではありません。人は何十年も前からコンピューターを相手にゲームを楽しんできましたし、ランダム要素を組み込みプレイヤーが楽しめるマップ作りをさせることもできます。これら自動作成マップのプログラムの精度が向上した結果、人が作ったのかコンピューターが作ったのかわかりにくいレベルまで完成度が高いこともあります。2010年代中盤から機械翻訳の質はかなり向上しただけではなくて、同年代末からユーザー対話式物語を紡ぐ能力もかなり躍進しています。

しかし作画AIとこれまでのAIと大きく違うことは出力しているのが画像だということです。この場合、コンピューターは読み解くのが必要な文章を作成しているのではなく、即座に判別することができる画像です。人は文章を読み、その内容を解きほぐす必要があります。どの出力例がより良いのかを確認するために膨大な量の文章を読むのはほとんどの人にとって苦痛です。しかし作画AIの出力であれば即座に気に入るか否かを判別できます。正確性は低くとも人はおおよそ文章を読むのより絵を見て判断する速度が速いです。ユーザーはそのコンピューターが生んだものが適切なのかどうかを判断する時間が短くて済むということでこれまで大量に生み出されてきたAI出力データと根本的に違うのです。

■作画AIに対するクリエーターの反応

作画AIが登場してまだ時間が短いのでこれらが人間の想像力やクリエーターのコミュニティーに対して与える影響について予想することはまだ難しいでしょう。

今後しばらくはAI作画を廻って盗作行為である否か、創作性を発揮しているか、想像とは何を意味するのか、クリエーターへの配慮や倫理的待遇などが活発に議論されるでしょう。日本のクリエーターの中では自らの作品を学習対象となるデータ集積に一部ならないように求めています。しかし米国においては現段階では著作権法の中のフェアユース事項のもとで機械学習は合法とされており、日本においては2018年の著作権法の改正で既存の著作物を機械学習対象として容認するのが加えられています。

たくさんのクリエーターが画像まとめサイトして機能しているDanbooruから自らの作品が取り除かれることを要求されていますが、既にこのサイトは丸々アーカイブされており、まるまるダウンロードすることが可能となっています。さらにプログラマーによって画像内容を区分するためにタグ作業を自動化したプログラムも作成されています。例えオンライン上のDanbooruが空っぽになったとしても画像集積サイトは他にもたくさんあり、作画AIにとって貴重なデータ集の提供先が複数あるのが現状なので、データの集積を防ぐのは現時点では非現実的だと言わざるを得ないでしょう。

たくさんの方々の創意工夫が結実して生まれた過去のたくさんの作品に依存しており、多くの努力の成果にただ乗りしているとして作画AIに眉をひそめる人は多いです。品がないかもしれませんが、ほぼ確実に合法です。もしコンピューターが原典とは明らかに違う作品を翻案することができたのであれば、それは人が行うことと同じことです。論理的に考えても人がやって合法なことをコンピューターに委任した場合は合法であるべきです。問題は手段ではなく、簡易性と規模、そして正確性です。

■作画AIの合法性と倫理性について

既にふれましたが当人の関与ないままでその人の絵柄をまねて絵を生み出すことができます。原則論として著作権は「作風」を保護対象としていません。もし私がサルバトーレ・ダリの絵柄で月面着陸を描いたとしてもその作品は私のモノと認められ、著作権の保護対象となるでしょう。他人の創作物を真似るのは才能を発達させる大事な過程であり、人類が創作行為を始めた時から行われたことです。我々は他人の作品を真似り、再現し、学ぶことでやがて自らの作風を確立します。クリエーターの世界は人が自らの創作を切磋琢磨させ、やがて独立して自らの作品を生み出せる作り手になることを想定しています。少なくともリミックスや模倣、再現においてその個人の創意工夫がどこかで織り交ぜられると仮定します。人は他人が作ったものをそのまま全く同じに作ることはできませんが、コンピューターはできます。

またコンピューターが他人の絵柄で大量の作品を生み出せるというのは色々な問題を発生させる可能性が決して小さくありません。もし作画AIが私の絵柄をそっくりそのまま再現し、受け手側も作ったのが本人なのかコンピューターなのかまったく判別できないほど精密であり、なおかつその私の絵柄で描かれた真贋性が判別できない作品が大量に生み出され、私本人の作品が受け手側の目に届かないほど脇に追いやられた場合、私には不正競争で訴え出る権利はあるのでしょうか?もしくは私の絵柄そっくりそのままで私の政治信条とは異なる政治的発言を繰り返した場合はどうなるでしょううか?フェアユースは創作行為や表現の機会においてある程度の平等性を想定していますが、AI作画はこの想定を容易に打ち壊すかもしれません。

芸術の世界において贋作の歴史はかなりさかのぼりますが、作画AIが作家の生活を脅かしかねない側面についてはディープフェイクや名誉棄損の枠組みで考える必要があるかもしれません。現時点で今後どうなるかは予想しづらいですが、しかしこれまで成り立っていた創作行為の前提条件がぐらついているのは否めない事実だと思います。

例えば創作途中の画像をコピペしてそのまま本人が絵を完成させる前に他人が絵を完成させることが大変容易になってしまいました。他人の創作物を拝借し、その貢献度合いを隠ぺいすることも可能です。クリエーターはその作風が常に進化するもので、長い年月をかけて大きく変化することは珍しくありません。そこでAIに古い絵柄とキャラを学習させ、20年前の作風そっくりで新作を生むことが可能です。例え何らかの手段を用いて収益化を防いだとしても、本人からすれば古い絵柄の「新しい」作品がコミュニティーの中で溢れるのを喜ばしいとは思わないかもしれません。

AI作成画像はこれまで遭遇したことないような倫理的な課題を提示しており、そのために作画AIによって生み出された作品を忌避する流れも一部のコミュニティーで発生しています。

キャラクターや作品の版権元がネット上で投稿されたファンアートを広報活動の一環として活用することは珍しくなく、これを円滑に行うためにTwitterで活用できるハッシュタグを準備し、ファンがそのハッシュタグをつけて投稿した際には版権元が活用することを容認したとするようなシステムを運用している例もあります。もちろんこれは投稿者が不正を行っていないことを前提としている性善説で成り立っているシステムです。作画AIによって生み出されたイラストに創作性があるのか否かについてまだ判断がしにくいのが理由であるためか、複数のVtuberはAI作成画像を投稿する際には作画AIを活用したことを明記するかまたは公式ハッシュタグをつけて投稿するのを遠慮するように要望し始めています。

また複数の画像掲載プラットフォームやコミッション(有償画像発注)仲介サービスや市場において作画AIの活用を制限したり、禁止するケースも始まっています。規制の理由は作画AIの出力した画像の創作的所有権にめぐる議論がまだ継続しているだけに留まらず、作画AIを活用すれば短期間で膨大な数の作品を生み出し、人間の創作ペースを簡単に上回ることができるというところがポイントでしょう。作画AIの生産性とこれが示唆する経済的な影響は広範囲にわたると思いますが、これについてはまた後程触れます。

■作画AIは単なる道具か?道具であり道具ではない側面

しかしこれ以上進める前に作画AIが生み出した絵とこれまで絵を見分けるのが意外と難しい点について言及させてください。ユーザーが入力する文章に支持されて作画AIが生み出す画像は特定のアルゴリズムに依存していますから、AIが出力例を解析してAI作成において特徴的な傾向が含まれているどうかを理論上では確認することができます。これはある程度までは有効性でしょうが、作画AIが生み出して絵に人が手を加えることでその本性を誤魔化すことは難しくありません。

さらに複数のクリエーターが作画AIを活用して自らの作品の品質向上の手段として関心を露にさせています。例えばマンガは主に画面手前のキャラクターを中心に展開しますが、背景に人物がいるのが重要な場合があります。マンガ家がアシスタントを雇う余裕があれば背景に適当な人物を描いてもらうことができます。マンガの物語において根幹をなしているのがコマ割りとストーリーの流れを作る作業ですが、背景や様々な画像要素の処理は物語作りから必要不可欠ではないかもしれませんが必要な作業です。マンガはかなり単調な作業が多いです。もしマンガ家がアシスタントを雇う余裕がなく、時間的な余裕もないのであれば著作権フリーの画像集や素材集を活用するかもしれません。それではこの作業をAI任せにしても物語作りに大きな支障をきたすでしょうか。現実には多くの芸術絵画は卓越した画家の指導の下で多くの弟子と一緒に協力して生み出されてきました。そのよう生み出されたから言ってその作品の価値は下がるでしょうか。

これまで絵で物語を伝えたい、もしくは自らのビジョンを具体化したかったが何らかの理由でそれを実現できなかった人の願望を作画AIは満たすことができるという点を検証する必要があるのではないでしょうか。作画AIの力をもってそれまで生み出されることが叶わなかった作品を生み出せるのであれば作画AIにはきちんとした存在価値があるのかもしれません。

私個人の考えとしては作画AIは道具ですが、色々な影響をもたらしかねない道具だと思います。悪用できる一方で人助けにもなりえます。創作を阻害する側面があります、同時にうまく活用すれば人の創作性を加速させ、さらに豊かな表現を生む道具にもなれるでしょう。作画AIを考えるとき、個人的(ミクロ)な観点も大事ですがこの変革についてはその影響力があまりにも強大であるがゆえに社会的(マクロ)観点で検証するのが必要だと思います。

■懸念される社会的・経済的影響

経済学では色々な生産の手段がどのように異なる結果を生み出すのを考えます。生産性は手段や資源によって大きく左右されるのです。例えば化学肥料を使うことで田畑の生産性を高め、特定の地域の生産量を増やします。しかし肥料の多用によってその余剰が河川へと流れ込み、やがては川や海辺の水質汚染を発生させて生態系を狂わせ、特定地域の漁業やその漁業に依存する業種に悪影響を及ぼしかねません。漁業関係者と漁業に依存する消費者は農家がとった選択肢の望まれない結果を被っているのです。

このような公害やそれが生み出す悪影響を「外部コスト」もしくは「外部性」と呼びます――ある経済取引が理由で生み出されるもその取引には関わっていない外部に対して具体的に発生するコストや出来事です。一つ一つのコストはそれほど大きくなくとも積み重なねでその影響力は莫大で広範に及ぶことがあります。一人が車を運転しても影響は少ないですが、何百万人が車を運転すると問題を起こします。

外部性の問題は公害にはとどまりません。例えば飽くまでインチ・ポンド法を使い続けるアメリカはインチ・ポンド法を使っていない国々に対して不の外部性を強いていると言えなくもないです。アメリカ以外の世界各国はほぼ共通でメートル法を採用していますが、世界でもっとも大きな単一市場であるということでアメリカの選択は世界各国に対して色々な影響を及ぼしているのです。

作画AIに依存した画像作成もまた同じような外部性を伴う可能性が非常に高いです。作画AIを組み込んだクリエーターのその生産性は向上するでしょうが、市場で作画AIが多用されるようになり作画AIを活用していないのに活用していると嫌疑掛けれて不利な立場に立たされる状況が考えられます。外部性というよりもダンピングにちかい話になりますが、作画AIに依存して大量の絵が作成されるようになり生活苦になるクリエーターと登場する可能性は高いと思います。数回のクリックで自分好みの絵が無料で生み出せるのであればなぜ対価払ってまで絵描きを雇う必要があるのでしょうか。この世はクリエーターの熱心なファンばかりで構成されているわけではないのです。この世はクリエーターのファンにばかりではなく、人によっては作り手よりも作り手が生んだ成果物にしか興味のない人もいるのです。

しかしこのような結果を生むという保証はありません。作画AIが突き進むことで逆に人の手を借りた作品作りが注目され、人間が生んだ作品に対する需要が高まるかもしれません。それでもな、私はこれからクリエーター業界はかなり激動するのではないかと思っています。それぞれは小さく見えても作画AIが徐々に色々なところで浸透し、これからさらに進化するのが積み重なり、やがて現段階では予想しえないような変化を生む可能性が高いと思います。

■作画AI最大の衝撃

作画AIのもっとも衝撃的な要素はコンピューターがアルゴリズムを使って絵を描いていることではなく、膨大な量のイラストが簡単に、手短に、そして匿名で生み出せるということです。絵描きは理想の絵に近づこうと努力を重ねますが、最大の障害は「才能」でも「感性」でも「技術」でも「創造性」でもなく、「時間」です。どのようなクリエーターも全員同じく「時間」という制約に苦しめられますが、作画AIが浸透することでクリエーターが絵に対して時間を投資するのが大きく損なわれることになると思っています。

作画AIの力を借りればクリエーターはその効率を向上させることは事実です。しかしこれは同時にクリエーターがより精密で高密度で完成度の高い絵を短期間で生み出せるのが期待されることを意味します。作者が色々試行錯誤し一つの作品に時間を投資するのがより難しくなります――なぜなら同じ時間をアルゴリズムに依存した方が早く作品が作れるからです。

作画AIをついて考えるとき、技術革新が特定の経済活動に大きな影響を及ぼしたことを連想します。写真機、レコードやその磁気テープなど音声収録方法、自動車などの発明……色々思いつきます。

これらの発明は人の生産性を向上させ、たくさんの人々の生活をより豊かにさせました。しかし同時に発明当時はあまり目立たなかった外部コストを生み出しています。写真は絵画の職業を変貌させ、音声収録技術は観客と音楽家の関係を根本的に変えました。自動車は人の営みを変えただけに留まらず、それそこ生活空間そのものを作り変えてしまいました。

AI作画は社会と人が創作物とどんな間柄を持つかを変えるでしょう。

■技術革新に対する市場の反応の歴史的傾向

飽くまでも原則ですが、何らかの発明や配給経路の変化によって特定市場に対して何らかのサービス・商品の供給が急激に増えた場合、価格は下がり集約が発生します。

ローカルな市場で靴の供給が爆発的に増えると競争について行けない小さなメーカーは潰れ、より競争力のあるメーカーの事業規模が拡大します。スマートフォンに写真撮影機能が追加されたことによって写真撮影が簡便かつありふれたものとなった段階でカメラへの需要が減り、カメラメーカーの数が減りました。

競争が激化すると、企業に対してはより付加価値の高いサービス・商品を追及することで競争をやり過ごす、もしくは価格帯を大量生産・消費を前提とした業務形態へと変更するのを圧力が強まります。

市場が飽和状態となった場合、その市場は廉価品に独占されるようになります。当初は高価格帯・中価格帯・低価格帯で構成されていた市場であっても、低価格帯が圧倒し、凡庸な中価格帯は急激にやせ細り、高価格帯は生き残りをかけて高い品質を維持した競争力で状況を乗り越えようとします。後ほどそれまで凡庸だった中価格帯のものが再発見され、その価値が再び見直されても、市場形態がすでに根本的に変わっているので中価格帯事業の再参入は難しく市場は主に最低限の機能・サービスを廉価で提供する低価格帯事業が台頭します。

しかし低価格帯事業の中核である廉価版は専門性が少なく付加価値が低いのでやがてことなる事業形態への変貌する動機が強くなります。すなわち市場を独占しつつも利益率を高めるために事細かいオプションを追加することで実入りを向上させる、もしくはより利益率の高い事業と抱き合わせることで収益を向上するビジネスモデルを模索します。当初は独立事業としても十分成り立っていたビジネスがより大きな多角的事業形態へととりこまれてしまうのです。歴史を振り返るとこういった例は非常に多いです。

電話は当初独立した事業でした。多くの国で電話は公益事業でしたが、民営化によって自由市場の中で競争する事業者へと転換させられました。やがて技術革新が市場集束を招き、その事業がありふれたサービスであるということでより大きなITサービスの一部へと転換しました。現在、単に電話契約することは少々面倒となりました。なぜなら多くの企業は電話だけではなくISPやケーブルTVなど何らかの抱き合わせ契約を消費者に求めるようになったからです。

音楽は民衆のエンターテインメントの定番で音声収録装置が開発されたのちも生演奏はまだまだありふれたものでした。しかしラジオとTVが社会に広く浸透するようになり、市場は音楽の廉価版で溢れるようになりました。この結果、音楽演奏は付加価値の高いプレミアへと進化する結果となりました。やがてカセットテープやCDもネット配信に圧倒され、現時点では音声再生装置はスマホや家庭用エンターテインメントシステムの一部へと集約されてしまいました。

■作画AIは特異点となるか?

このような商品・サービスの供給の集約は過去何度も発生しています。しかしイラストなどの文化的コンテンツは他にはない特徴をいくつも備えています。車や白物家電とは異なり、たくさんの選択肢の中で一つだけ選ぶ必要がありません。どの会社を選んでも骨子は同じである電話とは異なり、違う絵描きさんを選んでも以前と同じコンテンツを提供されるわけではありません。

作画AIが私の絵を模造することできたとしても、その模造品が市場にあふれたとしても、兼光の絵は兼光にしかできません。

しかし絵などのコンテンツに付与する価値は主観に基づいています。もし私の絵を模したAIの絵に満足する人がいた場合、私がその絵に関わっていようがいまいが関係ありません。もし作画AIが生んだコンテンツが消費者の要望にしっかりと沿っているのであればその人は人間がコンテンツよりも作画AIが生むコンテンツに満足するでしょう。

既にふれましたが作画AIのもっとも革命的な点は短期間で絵を作ることができることであり、そのために人が作る絵よりもはるかにコストが低いです。

機会費用(Aを得る為にBを犠牲にする)その商品・サービスを確保するのに必要とされるコストに比例します。ヨットを買うのは簡単なことではありません。大金が必要ですし、操船するのを学ぶための時間も必要な上に維持のための諸経費がかかります。作画している間その人の時間を拘束するわけですから人間に自分の要望する絵を描いてもらうにはそれなりの対価が必要です。

一方で作画AIを活用するときに生じる機会費用は限りなくゼロに近いです。

例えば手元の資金が不足しているので自分が生み出したいコンテンツの制作にプロの絵描きを招き入れるのが難しいことがあるかもしれません。作画AIを活用したイラストコンテンツを確保するのに必要な機会費用は人を確保するのに比べてはるかに低いのでこれまでは実現するのが難しかったコンテンツを完成させるのもより現実的になります。

容易に予想できるのは市場において提供される創作コンテンツの量がこれから爆発的に増える一方、それらに付与される価値は一部分野においてはかなり下落するということでしょう。

作画AIは他人の絵柄を再現するように調整することが可能なので特定の絵柄に付与される価値は下がるかもしれません。しかし絶対こうなるとは言えません。特定の娯楽作品に与えられる価値は完全にその人の主観に基づきます。特定コンテンツに対してより高い価値を見出す人が出てくるかもしれませんし、消費者として市場に参入する人が増えれば特定のコンテンツの価値が上がることも十分に考えられます。例えそうであったとしてもイラストが大量生産されることを通して市場が飽和状態となる外部性コストを起こす可能性が高いと言えるでしょう。今までは単純に洗練された技術によって高い完成度を誇っているということだけで売れていた作品も等しく高い完成度ある作品が市場にあふれかえることでその魅力が陰るかもしれません。

■「ご注文をセットになさいますか?」

これから私たちは「ファーストフード」ならぬ「ファーストアート」の時代へと突入するかもしれません。伝統的なレストランに対する需要は将来もなくならないでしょうが、かつてはありきたりで中庸だった料理の中には現在は高級料理として取り扱われる例もあります。昔、クラシカルやポップに関わらず安価で生演奏を楽しめることができました。現在、生演奏はかなりの対価を支払う用意のある趣味人のためとなり、それ以外の人々は録音で満足することしかできません。

作画AIの登場によってこれまでなかった機会が生まれることは確実です。それがどのような新しい機会であるかはまだまだわかりません。もし今後、作画AIが広く社会に浸透すれば――本当にそうなるかはまだはっきりはわかりませんが、仮にそうなるとすると作画AIは新しい機会を生むだけではなく同時に様々外部コストが絵描きに対して影響を与えるでしょう。特にこれから絵の世界に参入する人に対して顕著な影響を与えると思います。

少なくともAI作画の躍進が目立ち始めた2022年夏が一つの分水嶺となると思います。これ以前に絵描きだった人とそれ以降ではある種の区分けが存在することになります。以前から活動していたクリエーターで作画AIを取り入れる人は今後増えるでしょうし、逆にこれから参入する人でも作画AIを取り入れない人も受け付けない方もいるでしょう。例え理不尽であっても今後参入する人に対しては何らかの疑いが抱かれるようになっても不思議ありません。

忘れてならないことは作画AIの躍進と時同じくして日本アニメ・マンガの絵柄に感化されたたくさんの海外の絵描きさんが今現在、爆発的に増えているということです。また日本アニメ・マンガの市場は現時点でも拡大していますが、少子高齢化の影響でやがて日本の市場は頭打ちし、縮小する可能性が非常に高いです。

■我々はどこに向かうのか

今後の可能性としては集約が起きるかもしれません。トップクリエーターはより大きな市場で活躍しつつ、ニッチなジャンルの方々は何とか生活圏を保持できるかもしれませんが、多くのクリエーター志望の方々にとってオタク業界という生態圏を維持する金銭的報酬があまりにも足りないという状況になるかもしれません。膨大な数の作品で市場は飽和状態となり、あまりにも競争過多になりかねないのです。どんなに腕があろうとも実入りが悪すぎることから大多数のクリエーターは趣味でしか作品作りを楽しめない世界です。

上記した可能性に関連しますが、クリエーター例外主義の台頭とその例外主義に依存した創作の正当性がこれから幅を利かせるかもしれません。人はみんなそれぞれユニークですが、人によってはユニークさが抜き出ていることがあり、その独自性が商売の道具となりえることがあります。人の生き様とその人のクリエーターとしての頭角は比例するものではありませんが、しかし興味深い人生をたどった人について観客はより関心を感じやすく、とかく逆境を乗り越えた人を賞賛したがる傾向があります。

クリエーターがセレブのような扱いを受ける例は以前からもありましたが、YouTubeなどの配信サイトで多角的な才能を発揮し大きなマス市場の中で活躍し国際的スーパースターとなる例となると過去にはそうそうないとお思います。競争があまりに激しいためにクリエーターはより率先して自らを売り込む必要があります。多言語を駆使してライブ配信で観客を楽しませつつ卓越した創作物を生み出すのはこれまでの絵描きやもの書きには求められていなかった才能の組み合わせですが、現代においては大きな観客を確保するには必要不可欠となりつつあるように思えて仕方ありません。

より楽観的な見立てをすることが許されるならば作画AIの台頭が弱にアナログ的なコンテンツ作りに対する関心を呼び起こすかもしれません。ペンと紙を使った作画や独特な世界観や演出に対する評価がより向上する可能性あります。写真技術が向上し、社会に広まっていく最中、19世紀の絵画の世界はその新技術への半ばアンチテーゼとして印象派を生み、これがやがてモダン抽象画の世界へと繋がりました。印象派と抽象的絵画は芸術の世界を永久に変えた一方、写真や印刷技術の向上はデザインの世界を確信させ、誰でも本を印刷できるような世界を生み出しました。一般市場向けに肖像画を描いていた画家にとって写真は悪い影響を与えたかもしれませんが、絵描きは新しい環境に合わせて適応したのです。

将来、作画AIで作り出した素材を創作物の中に組み込むことは特筆するに値しない当たり前の行為となるかもしれません。この結果、業界はクリエーターに対して非常に高い生産性を求めるような悪い弊害を生む可能性はあります。既に日本のマンガやイラストの世界において担当から原稿が普通ではダメで、密度高くて精巧で傑出していないと困ると過剰になっているという話がちらちらと囁かれる時代となっています。原稿料がそのままか少し下がる一方で、です。過労は大きな問題ですが、作画AIはこの問題を緩和させる可能性がありますが、同時に悪化させる可能性もあります。

■クリエーター業界の未来を再検証する

創作の世界は常に変化します。昔から常に変化し続けています。しかし変化のペースは目まぐるしいレベルとなっており、20世紀に生まれた人間にとっては想像の領域を超えていると感じてしまいます。現状の変化は写真の発明が起こした変革を連想しますが、写真機の技術確認と浸透や徐々に進められたものであり、絵画の世界を脅かすようになるには相当な時間が掛かりました。写真の本当に革命的・革新的事柄が既存の画家に与えた影響は数十年にわたる緩やかな物でした。

一方で作画AIの瞬く間の躍進でイラストの世界の常識が5週間くらいで根本的に変えられたような気分です。これから5年後のアニメ・マンガの世界がどうなっているかを予想するのが不可能に思えるようになりましたが、その時までには作り手・受け手両方にとってより創作物がより豊かであいつつ生活もしやすい均衡に到達することを祈るばかりです。理想的には技術というのはその技術を取り扱う者や市場の中の強者をより有利にするだけではなく、より万人に恩恵をもたらすものであってほしいです。なぜならば想像力の魂と心は人の本来の性質であり、それは広く共有され賞賛されるべきだと思います。

このまま現状の状態が続けば新しい試みや革新的な表現に対する報酬やコミュニティーからの指示が減退するあまり、新規参入者が減るような産業の空洞化を招きかねません。芸術の分野において市場形態があまりにも急激に変化したためにその分野が萎縮し、時間が止まったような状態に陥った例をいくつも思いつくことができます。アニメ・マンガの世界で同じことが起きるような悲劇を避けたいです。

■個人的あとがき

この記事ではなるべく私自身の作画AIに対する感情を切り離しました。かなりの大激動を起こす可能性があるテクノロジーであると思っていますが、なによりもその影響力はより客観的な鳥観図を描くことを心がけました。それでもなお、色々なところで私の主観が混ざっていると思います。

私個人の意見としては作画AIは単なる道具であり、道具自体は色々有効利用できると思っています。「弘法筆を選ばず」と言いますが、想像力のある人や創作について貪欲な人、頭の中で色々な情景を思い浮かべる人であればどんな道具を使ってもけっこう面白い作品を作れると思います。作画AIは人の表現を大きく押し広げることができると思います。

コラージュやアイディア作り、人間の作業の補佐やアイディア集め、画面作り(レイアウトの確認)や色使いの検証において大きな力を発揮できると思います。複数のAIテクノロジーを組み合わせればAIで動くVtuberはかなり楽で編み出せるでしょうし、コンセプトやパラメーターを固めたゲームのコンテンツを自動作成することも可能です。それこそVRやARテクノロジーと組み合わせれば「自分だけの世界作り」が可能となるでしょう。

しかし自分にとって果てしなく居心地の良い空間づくりを際限なく楽しめる世界は同時に他者を受け入れない空間です。

作画AIは利己的な側面が強く、悪用が簡単です。非常に高度な創作事業をたった一人の人のために稼働させることができるということは娯楽や芸術の価値を下げるだけではなく「共同作業の価値」をもすら揺るがしかねません。既存の創作作品のストックをかなりもっている作り手であればそれを元に新しい作品を無限に作ることが不可能ではありません。絵心がない人間が他人の絵で商売するだけではなく、絵心がある人間もしくはたくさんの著作へのアクセスができる事業の怠慢と権力増大を可能し兼ねないテクノロジーだと思います。

コンピューターが瞬時に情報を操作できることでそれまで想定されなかった手続きや情報の悪用によって甚大な被害が発生することがあります。市場を巻き込んだ株価操作や特定の人種を排除しやすいような選挙区の制定など、以前から問題になっていたものの実際に大規模で行うのが困難であった行為もコンピューターとネットのお陰でかなり現実味を帯びており、実際に複数の弊害が発生しています。今回の作画AIもそのような事象をこれから起こす可能性が現実的であると思います。

作画AIに限って言えば読者と作者、作り手と受け手の信頼関係、そして創作のコミュニティーを脅かすような側面があると思います。人気によって栄枯盛衰するヒット作品の作者は世間で注目を集めますが、それよりも大きな影響力を持ち富の集積しやすいのがプラットファームを握る人間です。作画AIは作品作りの手段として考えがちですが、実際には作画AIへのアクセスするユーザーがアクセスする一種のプラットフォームであり、そのプラットフォームが画像掲示板、SNSや配信サイト、コンテンツ販売サイトと密接に連携するのが今後予想できます。これによって創作の道具が創作の管理と規制を内在した新たなる権威とならないことを切に祈ります。

最終的に創作は作者の主体性なくして成り立ちません。たとえ受け手がいなくとも作り手がこんなものを生み出したいという信念があればしっかりとした作品は編み出されます。世間には適当に編み出された作品は多数あります。商業的に成功した作品でもやや中途半端な作品は珍しくありません。子供だまし、穴埋め、点数稼ぎ――様々な理由からAIを活用した作品が生まれ、中には商業的に成功する例も生まれるかもしれません。それでもなお、自らが思い描く物語をできる限り切磋琢磨させたくさんの方々を感動させたい作り手はこれからも続くと思います。あわよくばAIがそんな活動を阻害しないことを祈りたいです。

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