「商業vs同人」から「開かれた公的表現vs閉ざされた私的表現」へ

以前、同人誌とはなんだろうかという問いを2013年に発表した。
2013年――同人誌の再定義
あれから10年が経った。

これまで商業誌と同人誌という区分けで日本のマンガ・アニメ・ゲームの世界を考えることが可能だったが、ネットとコロナ禍のためにこれが大きく変わったと兼光は考えてる。

最大の変化はプラットフォームとコミュニティが紐づけされなくなったのだ。以前は雑誌ごとに読者コミュニティがあり、よりディープなマニアのコミュニティを求めるならば同人誌界へと足を踏み入れるのが当たり前だった。

  • 大手商業誌=全国的ファンが緩く連帯感を感じる-
  • マニア系商業誌=個別雑誌単位や分野ごとのコミュニティが活発
  • 大手同人誌即売会=それぞれの同人誌即売会に継続的に参加する人間同士で連帯感を感じ、永続的なコミュニティを構築した
  • 学漫(学校単位などのマンガ・アニメ研究会)やミニコミ誌=かなり小さいが継続的に独自コミュニティを守っている

この中で目立ったのが商業界と同人界の関係で相互に影響を与えながらもある程度棲み分けが確立していた。

同じ作家であっても商業と同人では違う表現の可能性を求める傾向があり、読者層も同人誌と商業誌では表現物に対する期待がやや異なる。著作権の扱いや企業視点もある程度までは同人は許容される存在であり、商業界に対する脅威と感じられることはあまりなかった印象が強い。

しかしネットの旺盛と共にプラットフォームとコミュニティの紐づけが徐々に緩み始めた。本来同人誌は「限定的に流通される非商業的個人主体表現物」という立ち位置であり、これは既存の商業誌ではできなかった可能性を模索するプラットフォームと期待されていた。

だがツィッターやYouTubeなどを活用すれば個人が瞬く間にそのコンテンツを広められるようなった。既存の商業ラインでは想定されていない作品作りや広く緩いコミュニティを自分を軸に作るようにできた。古い考え方で言えば商業出版の拡散力と同人界の濃密なコミュニティを兼ね備えた独自のプラットフォームを武器にすることができるようになったと言えるだろう。

この為に今後は商業と同人と言う区分けはなく、「開かれた公的表現(open-area public expression)」と「閉ざされた私的表現(closed-space private expression)」なる表現意図と表現背景を組み込んだ区分が有効なのではないかと考えている。

開かれた公的表現は主に商業誌の世界やマスメディアが得意とする領域だが、個人でこれを狙うことも可能であり、実際に行っている人も少なくない。

閉ざされた私的表現と言っても誰かが門戸を守っている秘密結社内の表現ではなく、同好の人間が私的領域を共有しているという前提で構築された創作の場だ。公的空間にあるにしてもそれは確固とした独自コミュニティが形成され、そこに入るには何らかの努力と理解が必要である。

ここで強調したいのだが、この両者を分ける線引きは簡単ではない。メインカルチャーとサブカルチャーの区分が簡単ではないのと同じであるが、当事者の意識や表現の意図を見ることである程度の差別化は可能ではないだろうか。また開かれた公的と閉ざされた私的表現の間にはたくさんの中間レイヤーがある。グラデーションであり、クリエーターはどちらかを選ぶことで完全にどちらかを捨てるのを強要されるわけではない。作品やジャンルも時間の経過とともにその位置をシフトさせていく可能性はいくらでもある。

大事なのは公的に共有されるのを目的とした表現なのか、もしくは独自の価値観や遊び場を保全したいと考える私的な場を意識した作品なのか――この意識がどのように働いているかを踏まえる事である。繰り返すがこの両者は完全には矛盾した目的意識ではない。しかし軸足は明確に異なるのに留意願いたい。前者は自らが世界の一部であるのを疑わず、後者は自らの世界を作りそれを他者が共有しなくても構わない理念が確固である。

突然このように結論に飛躍して申し訳ないが、このように考える理由は既存の商業誌や同人界の理念が今なお、激変した日本のアニメ・マンガ・ゲームの世界で形を変えても持ち堪えている所にある。

すなわち同人界で盛んだった「個人主体のコミュニティー作り」「内輪ネタ」「自己満足」「既存の商業出版の世界では許容されない表現」が同人誌界だけではなく、YouTubeやpixivなどの商業的投稿コンテンツ配信サイトやFantia、Patreon、pixivFANBOXなどのサブスクでも活発に続いている。古い枠組みで考えると公的で開かれた企業プラットフォームを使っていることでこれらはすべて「商業の領域」と捉えるべきだろう。しかし長年の日本にある「商業vs同人」という考え方が色々な形で継承され、「企業優先の営利目的ではない表現を気の合う仲間の間でがやがや楽しむ」のメンタルティが新しいプラットフォームで移植されていると言っても過言ではないと兼光は考えている。

すなわち「商業vs同人」の差別化は日本の表現の場では依然としてある程度機能しているが、プラットフォームが大きく変わったのだ。新しいテクノロジーに対してどのように適応したかを考えるのにこの「開かれた公的表現/閉ざされた私的表現」スペクトラムが役立つと考えている。

今後、生成AIの発達で作品の主体性が脅かされる事態が進むであろう。実際、創作作品は人の手で生まれたものであるという前提は崩れ去りつつある。しかし人が人であり続ける以上、連帯や理想を共有するという心理的渇望は変わらないと考える。作品についても作品を生み出した作者について興味が生まれ、それを軸にコミュニティーが形成されることも当分変わらないと思われる。作品ではなく作者、そしてその作品を支える同好者のコミュニティがより重要な地位を得る未来において「閉ざされた私的表現」を中心に展開する表現の場はますます重要になると思われる。

すべてがネットワークの上で共有され、その依拠性が疑わしくなった現在、同人誌のようなアナクロな世界に活路があるのであろうかという問いは避けては通れない。それではパロなど「許容された最大限自由な作品の発表の場」としての要素以外で同人誌の世界は存在し得るのであろうか?「開かれた公的表現」ではかならずしも展開しやすいわけではない、同じ趣味や価値観を共有した不特定多数向けの共通・共有・準私的な「砂場」「遊び場」として「閉ざされた私的表現」とその究極の発表手段である同人誌はまだ存在意義があると思う。

英語圏でzineの良さが再発見されたように、ネット社会でも同人誌はまだまだ担う役目があるのではないだろうか。その役割を考えるに私は今後、創作のコミュニティの役割が重要なキーワードになると考える。

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