萌え絵の違法性

日本においてアニメ的な配色と大きな瞳や可愛らしいとされる記号の組み合わせで構成された、いわゆる「萌え絵」が社会的に広まったのは21世紀に入ってからでしょうか。それ以前からもマンガやアニメは広く市民権を得ていましたが、アニメ・マンガ文化のサブカルチャーともいえるかもしれない美少女・BL系分派がサザエさんやドラえもんなどの作品群と肩を並べる世界に近づいたといえるのかもしれません。

さて日本国内から「日本の萌え絵は性的な要素が強く、直接エロ描写がなくても海外では児童ポルノとして捉えれるからよろしくない」や「萌え絵があまりにも広く社会的に浸透している。海外から嫌悪感どころか場合によっては違法なコンテンツなのだから身の丈をわきまえてもっと大人しくあるべきだ」という主張が2018年にちょくちょく見かけられるようになった気がします。

キズナアイをはじめとするVtuber(バーチャルYouTuber)が社会現象として話題になりはじめてからこの話題は加速しているように思えて仕方ありません。

しかしながら日本のアニメ・マンガにおいて大きな地位を占める「萌え系」が海外では社会的に不謹慎とされる主張や表現の自由の保護に入らないという主張には同意できません。制限速度を超える速度をだせる車の話を持ち出して「車は違法」というような主張に思えます。そもそも海外での規制基準は非常に多種多様なので一括りで論じることは事実誤認や歪曲へとつながりやすいと思います。

まず欧米の基準を持ち出す時には「欧米」の概念を考える必要があります。

アメリカは表現の自由を最大限保証する国として有名で、アメリカでは許容されてもカナダやドイツでは違法とされるような表現物が多々あります。

欧米諸国はは民主主義・市民生活の保全・個人の権利の保護という理念で共通点が多いと言えるでしょう。しかし、具体的にどのようにその理念を守るかについてはさまざまな取り組みを模索し続けています。国によっては驚くほど寛容ですぐ隣の国では極めてきびしかったりします。

つまり「欧米の基準」「先進国の基準」を持ち出すことは曖昧極まりないと思います。

このような欧米各国の異なる取り組み方を意識するのに加え、長い歴史的観点と多様な視点を垣間見れる鳥瞰図が大事である私は考えています。さらにはどの国にも複数の異なる基準が並列し、共存していることを忘れていけません。

さて、ここでアメリカの基準に焦点に当てたいと思います。世界で非常に影響力のある米国の表現規制や視点ですが、次の四つに大別できると思います:

(1)連邦法や州法の条文基準と判例
(2)FBやTwitter等ユーザーコンテンツ共有プラットフォーム利用利用規定の基準
(3)特定のコミュニティで受け入れられた基準
(4)個人・団体が提唱する基準

―これら全部別々です

■(1)連邦法や州法の条文基準と判例

まず(1)ですが、米国は日本と猥褻の取り扱いが大きく異なります。日本では赤裸々な性描写において陰茎と女性器に対して程度の修正を加えれば、題材やその描写の傾向など、作品の内容についてはほぼ一斉に不問とされ、当局から追求されません。これは日本国刑法175条にそのように定義されてからではなくて、猥褻図画に該当嫌疑としての当局の運用基準です。不平不満が多い基準とは思いますが、ある程度までわかりやすいのは否めません。

ときどき書き換えられるのが本当に困りますが。

しかしながら、当局が問題視して警告・逮捕・立件したとしても裁判所で結審されなければ猥褻とは認定されません。日本は米国に比べると警察と検察当局による立件基準はかなり保守的で、法廷で当局の立件が無罪と結審となるケースは少ないです。(ただ、ここ近年増えている印象はあります。)

一方、米国では猥褻は陪審員の結審によって認定されます。日本のように判事ではなく地方に根ざした陪審員が自らの価値観に導かれて違法性を考えます。市民の基準が地方地方によって大きくことなるのが特徴的です。このため、AVの撮影がロスに集中しているなどの現象が発生します。

確かに米国は想像上の未成年の性描写の違法化を1990年代から模索しています。

しかし2002年に米国最高裁はヴァーチャル児童ポルノを違法化を試みた1996年のChild Pornography Prevention Act(児童ポルノ防止法)に対して違憲と言う判断を下しました。しかも9人いる判事が6対3という割合で違憲と認定した事は当時随分話題になりました。この時に最高裁は色々な観点から実在する未成年者を含まない児童ポルノを全面禁止するのは過剰であると指摘しています。

・同法律は表現の自由が保障されている猥褻ではない表現も違法化している。
・児童虐待を伴う実在児童ポルノは児童の保護と福祉を踏まえ、表現の自由が守るべき範囲には含まれない。だが、児童虐待を伴わない偶像児童ポルノに同じような「表現の自由を上回る公共の福祉性を優先する必要」は当てはまらない。
・偶像児童ポルノと実在児童を巻き込む性的虐待犯罪行為の間に明確で直接的因果関係が認められない。
・実在児童ポルノが違法である最大の理由はその内容ではなく、その製造過程にある。
・犯罪に使われるかもしれないという可能性だけで、それ自体が無害であるモノ・合法的に制作されたモノを違法化するのは過剰である。
・違法行為を促がしかねないという理由だけで表現を規制することは過剰である。市民の私的思考を望ましい方向に向けるために法規制するのは不当である。
・偶像児童ポルノが実在児童ポルノの制作を促がすという論拠は脆弱であり、実際には取扱に非常に厳しい処罰規定が伴う実在児童ポルノを偶像児童ポルノが市場から駆逐する可能性がある。

この2002年の最高裁の判決に不満を持つ人は数多く居ました。半年もしないうちに新たな法律が連邦議会で可決されて、2003年にブッシュ大統領の署名をもってProsecutorial Remedies and Other Tools to end the Exploitation of Children Today Act(「今日をもって児童の搾取を終焉させる為の検察的解決策とその他法」)と言う法律が設立されます。

この法律は法の名前の頭文字をとって2003年のPROTECT法として知られています。この法律では最高裁の先の違憲を判決を踏まえていくつか定義を調整しています。まず擬似チャイルドポルノの定義を狭め、本物の未成年ポルノ画像と「見分けがつかない」(“indistinguishable”)コンピューター画像を禁止としています。これによって明らかに実在の児童の写真にしか見えない画像であっても、児童の身元が判明しないなどの理由から児童を特定できない場合でもその所持者や配給者を追及できるようにしました。

2003年のPROTECT法のもう一つの大きな変更点は実は米国刑法の猥褻条項に関連しています。猥褻を取り扱う刑法の条項は18章1461、1462、1464、1465、1466項などに集中していますが、PROTECTでは1466Aという条項を追加しています。この条項に於いて「連邦政府の管轄が及ぶ範囲に於いて、実在する・しないに限らず猥褻な描写を含む児童が題材となっている作品」を一律違法化しています。

つまり「猥褻ならば表現の自由が当てはまらないので、偶像児童ポルノも違法化できる」ということです。

この条項は非常に興味深い側面があり、猥褻法の条項でありながら、その処罰規定は児童ポルノ法に準ずるとなっています。つまり猥褻表現で性犯罪者と同一の扱いを受けるということです。児童を毒牙に掛けるような行為の産物に関わる人間を激しく罰するのは当たり前ですが、PROTECTのお陰で実在の児童と一切関わらない人間にも等しく厳しい量刑を適用される規定が用意されたわけです。更に猥褻は配給・展示・販売は違法ですが、所持は合法です。私的範囲に於いて製造も合法です。ところが1466Aの規定する猥褻偶像児童ポルノの条項においては所持も違法としています。

それでは米国での「猥褻」とはなんでしょう?

1973年の最高裁のミラー判例が現在の米国の猥褻の基準となっています。現在アメリカで特定の表現が猥褻と認定されるのは次の三つの条件が判断基準の焦点となります。

A)一般市民の視点からして、在住する地域の基準を踏まえ、特定の表現の全体が「好色な興味に訴える」表現と認められる。
B)一般市民の視点からして、在住する地域の基準を踏まえ、特定の表現に於いて非常に不快な形で性行為などを描写している。
C)一般市民の視点からして、在住する地域の基準を踏まえ、特定の表現がその全体に於いて文学的・芸術的・政治的・科学的価値が一切欠如している。

この三つの条項を満たしていると法廷の場において認められたモノのみが米国では猥褻と認定され、表現の自由が及ばないものとされています。

「在住する地域の基準を踏まえ」という条項は非常に重要です。地域の独自性と文化の違いを認定している条項であり、上下をつけていません。この為に米国では複数の猥褻の基準があるといっても過言ではありません–非常にリベラルなロスやサンフランシスコ、ニューヨーク・シカゴ・シアトルに置ける基準とユタ州の片田舎やオクラホマ州の辺境の基準は非常に異なります。全米のアダルトビデオの多くはロスアンゼルスで制作され、成人向け出版物がニューヨークなどの都市に集中しているのは理由があるのです。ロスで作ったものをユタ州や違うところで作った場合、その地域の猥褻基準に引っ掛かる可能性があります。事実、テキサスでは同性愛を違法化する「ソドミー法」がごく最近(2003年)まで法文としては有効となっていました。(実際には最近は滅多に運用される事がなく、有名無実となっていましたが、2003年の最高裁判決をもってようやく違憲と認定されて、無効になりました。)それまでに米国の猥褻基準はばらつきがあります。

「児童ポルノ問題」に限らず、米国と日本の間では文化的背景や法律運用事情が大きく異なる側面があります。それを鑑みず米国の法律基準を安易に取り沙汰することは危険極まりないと思います。

■(2)FBやTwitter等ユーザーコンテンツ共有プラットフォーム利用利用規定の基準

「合衆国」であるアメリカは法律や判例でもバラツキがアメリカですが、(2)のネットコンテンツプラットフォームは法律の他にも収益が依存してるユーザーや広告主の視点を強く意識します。万人向けのプラットフォームを目指す会社は場合によっては合法である同性愛者がキスしているすら規制します。

八方美人的な会社は極端に物議を避ける一方、その物議を呼び水にして忠誠心の強いユーザー層を確立するサービスもあります。一般的な企業からの広告収入は犠牲にしても、それを確実な運営資金の礎となるような購読料を支払うユーザー層に依存するわけです。

日本で見聞きしている分にはフェイスブックやアップル、グーグル、アマゾンなどの巨大な企業の存在感があたかも全米のコンテンツ倫理基準を全て取り決めているように思えるかもしれません。これは明らかに誤りです。

米国ではそれこそ無数のネットサービスが色々な主義主張の元で運営されています。これらの抽象のネットプラットフォーム企業のユーザー数は大手に比べるとそれほど大きくないかもしれませんが、企業のコンテンツ規制基準の多様性を大きく押し広げています。

■(3)特定のコミュニティで受け入れられた基準

さて(3)ですが、地方コミュニティの倫理基準がネットと同じくらい自由で多様であるか尋ねられれば「場所と状況によりけり」としか言いようありません。まずいえることは市民参加による自治意識は日本よりも旺盛です。この為、住民の保守的宗教観が町並みの生活様式を強く影響することもあります。

しかし中絶や同性愛者の受け入れなどを巡る議論で垣間見れますが、アメリカにおいて住民の価値基準にかなりバラツキがあります。公共の領域において何処まで性的に赤裸々な表現を容認するか、異国のコンテンツが受け入れられているかは地域によって大きく異なります。

ディズニーランドで水着だけの格好で歩き回っていれば注意されることがあっても、海辺やプールであれば文句言う人が減るでしょう。同じように米国の地域によって「公共倫理基準」は日本以上にバラバラです。保守的なコミュニティ共通基準もあれば合法の範囲、ギリギリまで迫る許容されることがあります。

■(4)個人・団体が提唱する基準

最後に(4)の個人・団体が提唱する定義ですが、(2)の同じように千差万別であることは言うまでもないでしょう。(3)の地方で効力を発揮する特定コミュニティ基準とは通常、議決などで制定されます。これに対して個人・団体が提唱する定義や主張は、それそのものに強制権がありません。

もちろん個人・団体の訴えによって規定や法律は変わることがありますが、それは制定のプロセスを経た確立します。主義・主張を唱えることは市民意識を揺り動かし、大きな潮流を生むことがあれば、逆に反発を招き失速することもあります。感情に導かれた基準がその曖昧さから自壊する例が多いです。

個人・団体が提唱する基準は尊重されるべきですが、受け入れるかどうかはまったく別の話です。主義・主張の平等性の原則は民主主義の礎であり、この原則は人が確固とした倫理観を構築するの必要不可欠であると思います。

■検証:萌え絵は違法か?

これらを踏まえて日本の萌え絵に対する萌え絵の基準を考えてみましょう。

日本の萌え絵柄はよほど赤裸々な性的表現でもないかぎり、法的は確実に米国の表現の自由の範囲内に留まります。未成年者が裸体を晒している・性行為に耽っている描写が猥褻の範囲に踏み込めば、絵柄に関係なしに係争の対象となりかねません。絵柄の問題ではないです。

企業や個人によっては「幼い女児の顔、虚ろな瞳、不自然に乳のはみ出した肉体に小さな服」を忌避・問題視するかもしれません。それもまた個人の選択の自由に範疇であり、咎められるべきではありません。しかしこの基準を他人に強制できるかとなると表現の自由や個人権利を守る上では否です。

企業や個人が運営するプラットフォームにおいて特定の表現を排除することは合憲です。独占に近い状態となっている場合はその効力や社会的な影響力について議論の余地は大いにありますが、原則としては他人が用意した媒体で発表できないのであれば、発表できる媒体へ移れば良い、ということになります。

■総論

わたしは年少であった1970年代から日米のアニメ・マンガ・ゲームの違いや猥褻の基準、「不謹慎とはなにか」という議論を見守ってきました。より深く勉強したのは大学時代からでしたが、肌身で色々な基準があることを感じてきました。今なお、日本でもアメリカでも、同じ国内や同じコミュニティの中でも尊ばれている基準は一つではなく、色々なふり幅や異論がたくさんあるのを実感しています。

わたしにもネットが発達したおかげで色々な概念の定義や定説が明確化し、より議論が捗るのではないかと思っていた時がありました。

学術の世界では色々な学派がありますが、論拠とする定義や基準については確認しあってから探求や議論します。インターネットのおかげでたくさんの情報へのアクセスが可能となり、色々な論理を検証しやすくなったはずです。

しかし逆に定義や基準が乱立し、これらが整理されないまま感情をむき出しにした議論が増えている印象があります。これまで今で可視化されなかった主義・主張が顕著化し、それぞれのクラスタ(集い)から飛び出して交通整理されず飛び交うようになったのです。情報や娯楽コンテンツの電子化によって今まで視野に入らなかった主張や表現へと簡単にアクセスできるようになり、昔に比べると信じられないほど全てがさらけ出される時代へと変わりつつあります。

情報共有が容易になり広く浸透した今、様々な情報・作品の発表がフラット化しました。しかしこれすなわち、全ての情報・作品が万人のために発表されている訳ではありません。現実社会と同じように多種多様なコミュティが想像の領域において展開し、ネットなどを媒介して共有されます。

中には気に入らないものもあるかもしれません。他人が嫌悪することを予見できる表現もあるでしょう。それらについて注意啓蒙することは大事ですが、違法性をちらつかせて言論封殺や検閲を呼びかけることは建設的ではないと思います。

ここでは大事なのでは自らに向けられていない情報・作品を許容する成熟性ではないでしょうか。文化の画一化するのを避けるためにも想像の領域内においては多種多様な表現が容認されるべきだと思っています。

既存の作品に不満あるのであれば、新たな表現を追及するのが良いと思います。そうすることで新天地が切り開けると信じています。文化の豊かさは引き算ではなく、足し算によって成り立つものなのではないでしょうか。私はそう信じています。

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