不謹慎という名の王様、空気という名の女王、出る釘は打たれる荒野

権力者は驚くほど自らの主張を変えて自らの正当性を主張する。多少齢を重ねたことのある人間であればバブル前の昭和の政治家の多くが「今日日の若者はカタカナを使いすぎてけしからん。身なりも髪型もチャラチャラしている。洋画やロックなどの所為だ!もっと日本文化を大事にしろ」と声高に主張していたのを思い出せるだろう。ところが平成も四半世紀分が経過した現在、今度は政治家の多くは奇妙なカタカナを使いまくり「今日日の若者は世界志向が足りなり。グローバルスタンダードに合わせて日本文化も改変しろ」とか言い出している。結局のところ、他人を指図する大義名分であれば何でも活用するのだ。

現在議論の対象となっている自民党が起案した児童ポルノ法の改訂案においてはマンガ・アニメ・ゲームなどに登場する想像上の未成年者が関わる性表現と実在児童の人権侵害との関連性を模索する規定を設けている。実在・非実在を問わず未成年者の性表現を規制する意図が明解だ。

この児童ポルノ法の改訂を廻って日本の性表現が自由すぎる故に自らこのような法律による干渉を招いたという主張がある。日本のマンガ・アニメ・ゲームが法規制を招いた理由はたった一つだと私は思う。それは政策決定の場において自らの正当性を訴え、権利を守る努力を怠ったからだ。

あまり表沙汰にならないがマンガ・アニメ業界には様々なタブーが沢山ある。欧米社会では考えられないような自主規制のリストの一部は私も把握している。その中の幾つかは明らかに「臭い物に蓋」という姑息な精神が見て取れる。作品を楽しむ受け手側はあまり意識せずにいられるが、注意深く欧米の作品と日本の作品を比べると色々な決まり事の違いをはっきりと認識できるだろう。そう、同じ日本で存在する作品でも欧米発だと許されて日本発では許されない決まり事なのだ。不公平なことこの上ない。

これから創作で身を立てたいマンガ家の卵たちが時々「自粛対象リストを知りたい」と私に尋ねることがある。しかし私はそんなリストを意識せずに創作する事を薦める。理由は簡単だ。発想において「タブー」「不謹慎」「やりすぎ」「非常識」「配慮が掛けている」などを意識し出したら何も独創的なことを思い描く事が出来なくなってしまう。脳内でワクワクすることはとても大事なのだ。多少危ない事柄を思い描くことは決して悪い事ではない。

若手に対して私はかならず次のように答える。「とりあえず世間を気にせず決まり事を無視して自分が納得できる作品を思い描いてみて。ネームなりコンセプトなりが固まってからそれをどう世間の決まり事に刷り合わせるかを考えるので充分。最初から自分の思考に枠を当て嵌めてはダメ」と。想像の領域は完全な聖域でなくてはいけないのだ。独創的な物語への出発点だからだけではない。

古代ギリシャ時代に文明社会を構築する上で様々な必要不可欠の礎が編み出された。中でも重要だったのが「思考実験」と「議論」だ。時の権力者や時世に応じて振り回されることはあったが、3000年前に関わらず当時かなりの自由が許容されていた。「思考実験」と「議論」を可能とするのは「表現の自由」。「表現の自由」なくては法治国家も、民主政治も、科学技術も発展しないということ我々は意識し無さ過ぎている。

今、規制が望まれているのは日本が自由すぎるからだという声がある。私は海外と照らし合わせて断じて「否」と言わせて頂く。性表現創作物に置いては日本は抜き出た自由と豊かさがあるかもしれないが、メディア文芸全体を見据えると様々な制約や決まり事があって色々な自由な創作の妨げとなっている。

マンガ・アニメ・ゲームが無責任に咲き乱れているのではない。植木鉢の形が変わり、これまで手入れに関わっていない人間が関わるようになったからだ。だがしかし時代に逆行して昔のように人目のつかない存在へと戻ることはできないし、それは文化の衰退を意味すると私は考える。

作り手と読み手は第三者への他人への配慮を意識しつつ、自らの共有空間については最大限の自由を確保し、これを更に豊かにする努力を怠ってはいけないと私は強く感じる。それは次世代にとって今以上に自由で健全な世界を託すために必要なことだからだ。

決まり事が多い方が不安が減るという考え方には真っ向から反対させて頂く。

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