誰のための表現の自由か

[この文章は2018年11月にツィッターで連続投稿したを内容を補足・編集・改訂したものです]

表現への許容の度合いは様々であり、表現者を取り巻く基準に「世界標準」というものはありません。また、同じ国の中の中でも地域やジャンルによっては様々な基準があります。市民の自治による監督権限が分散している国では自治体によって基準が違いますし、映画やTV、ゲームなどを巡って異なる基準を制定している国家は珍しくありません。また法令で規定されている範囲は飽くまでも法令の設けた基準であり、できるだけ明確に・できるだけ公平に・できるだけ表現の自由と個人の尊厳が守られるように設計するのが一つの理想でしょう。

表現の自由を守る理由は色々あります。政府の腐敗や暴走を止めるため、文化・芸術・科学の発展を阻害しないため、報復を恐れない議論を可能にし、表現の平等性を保全しつつ発言者の人権を損なわないため。私個人の意見ですが、守られるべき自由は人から疎まれるような「人気のない」「嫌われた」「小さい声」を重要視するのであって、法の保護なくとも持ち上げられるような人気のある、格式高いを優先する必要はないと思います。表現の自由は万人にとって常に居心地のよい景観作りをするためではないのです。

個人が安心に感じられる環境作りは重要ですが、特定個人の主観的安心感を基準にして他人の権利を制限することは危険極まりないと思います。思い出して欲しいのですが、これまでに「社会的、道徳的、公序良俗の違反である」を理由に色々な個人の尊厳が蔑ろにされてきました。このような権威の乱用は世界各国で行われており、今なおも幾度となく進行している例はあまりにも数が多いです。

私は社会や個人を尊重する公共性の構築と表現の自由の共存は可能だと考えています。歴史的な町並みに建てられる物件は外装保守的でも、内装はいくらでもはっちゃけても良いのではないでしょうか。これを情報共有の場において可能にしてくれるのがゾーニングであり、メディア・リテラシーだと思います。

気に入らない内容に直面したとき、私たちは表紙を閉じる・チャンネルを変える・視線を逸らすことができることを忘れてはいけません。目に入るもの全てを気にするのはやや息苦しいと思います。「気にしない」というスキルは情報過多社会に生きる上では必要不可欠ではないでしょうか。

よく「子供がみたらどうなんだ」や「フィクションでも心が傷つく人がいる」という主張を論拠にした発言があります。一見、これは弱者や被害者への配慮を重要視すべき、という誠実で慈しみに溢れる素晴らしい意見に聞こえますが、冷静に分析すると論理的に破綻している側面があり、そのまま看過してしまえばパンドラの箱をあけるのに相当するのではないかと不安に感じます。

残念ながら私たちが生きる現実社会は見守られていない子供にとって危険な側面があります。人が人としての自由意志に導かれて行動する際、誤って怪我をしたり亡くなることがあります。これらの危険要素を徹底して取り払うには個人の自由を大きく制限し、市民を広く細かく管理するのを良しとする社会とそれを可能にする技術が必要でしょう。

私たちの命の源である太陽も数秒間直視するだけで私たちの視力を奪います。なくてはならない水もタライに張ることで溺死を誘発できるのです。自然に生える樹木も登れば高さによっては落下による怪我か死に至る危険極まりない構造物といえます。

しかしだれも太陽を無くせ、水を制限しろ、樹木を全て伐採せよとは言いません。言うべきでもないでしょう。

危険な世界の中をうまく立ち回る知恵と知識、分別と成熟性を備わるまで私たちは子供を適切に見守り、成熟した人間に育てるのが最善だと思います。

成熟した人々同士のやり取りを前提とした社会生活を、分別つかぬ子供の時折無軌道な行動力を意識して組み変えるべきはないと思います。三輪車に乗る子供と大型トラックが同じ道を走るような交通法規の構築やインフラの整備は無茶なのです。

「フィクションでも心が傷つく人がいる」ついては大変申し訳ないのですが、配慮には限界あります。私はアレルギー持ちですが、「私のアレルギーを論拠に他人の行動や食事を常に制限すべき」でしょうか?私は特定の食べ物の食べると命の危険がありますが、だからと言ってそれを他人に押し付けません。自ら摂取するモノについて自分で気をつけるしかありません。

私にとってアレルゲンであるものも、他人にとってはおいしい食材であり、豊かな食生活の一部なのです。

人によって何が害をなすのか予測し難い部分もあります。それらが市場を媒介して流通するのに不満を感じることがあるかもしれませんが、市場とは万人それぞれの需要・嗜好を満足させるために存在するものであり特定個人のための流通ではないと思います。スーパーにアレルゲンがあってもスーパーを潰せとは誰も言いません。

創作物が口に合わないのであればそれは避けるのがよいでしょう。しかしその創作物が存在すること事態が許せないから無くせというのは危険な論理です。あなたが大事にしているモノを違う人が全否定するのを良しとしてしまいます。色々な作品や並列して存在できることは素晴らしいと私は感じます。成人向けゾーニングや多種多様なジャンルが介在する日本こそ人々の多様性に準じた多種多様な趣味趣向を満足させられる豊かな市場といえるのではないでしょうか。

また創作物は概念上の存在であり、読解力がないとその情報の伝達は設立しません。どのような人畜無害な創作物に対しても嫌悪感を起こすことは可能です。手の影を見て蜘蛛が見える人もいることを想定してモノづくりをするべきでしょうか?

対面で物語を紡ぐならいざ知らず、全能の神でもなければ手に取るかもしれない読み手全員を意識して物語作りをする出来ないと思います。何が誰の琴線に触れるのか、何が誰かの逆鱗に触るのか、すべからく予知することは無理です。なので結局は「摂取するモノを気をつけるしかない」としか言いようありません。

もしろん、作品に対して不満を露にすることは制限すべきではありません。しかし自らが不快感を感じたのだから他人もその不快感を共有するのは当然であるというのは行過ぎた配慮の強要に繋がりかねません。それは特定の作品を持ち上げる人にも当て嵌まることです。あなたが良いと感じているのを他人に押し付けるのは行き過ぎですね。

私たち一人一人の基準と私たちを取り巻く基準は世界共通でもなく、歴史的にも普遍ではありません。人は変わります、社会は変わります。表現規制の大義名分は崇高であることもあれば、恐ろしく下らないこともあります。規制や基準が裸の王様であるとあなたが指摘すると叩く人が出てくるかもしれません。そこまでは予測可能の範疇でしょう。

ですが規制や基準に対して異議を唱えれば、その主張を応援する人も確実にいます。表現者の場合、それは読者と視聴者でしょう。しかし中には規制を求める相手が憎いという動機が先走って、過激な発言や行動を繰り出す人も出てくることがあります。相手が過激だから自分も!は不毛ではないでしょうか。

あなたはたくさんの方々に支えられて生きているのです。でもあなたの理念や思考自体はあなただけのものです。他人への配慮や意識することは社会の中で生きる上で大事ですが、自己の確立を放棄しないで下さい。規制を巡る論拠は絶対的正義とか世界共通の倫理とかが持ち出されやすいですが、あなたが考え、感じるのと同じように他人も思考し、色々な受け留めをしているのです。

表現規制や表現の基準は自己決定権や個人の権利、尊厳に直結しますが、それがあなたの全てではありません。だれでも安心して安全な自由な表現を追求できる市場は絶え間ない助け合いと連携の上で成立っています。それを意識し、出来る範囲でその環境整備に貢献しましょう。でもその間に自分を見失ったら意味がありませんから気をつけてくださいね。

This entry was posted in censorship, harmful material, Japanese, public morality and media. Bookmark the permalink.

While I may not be able to respond to all comments, I always welcome feedback. Thank you.

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Google photo

You are commenting using your Google account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s